家で使ってもらえる和紙が漉きたい 滝製紙所 瀧英晃さん
越前和紙の伝統工芸士である株式会社滝製紙所の瀧英晃(たきひであき)さんにお話をお伺いしました。福井県鯖江市・越前市・越前町を中心に開催された産業観光イベント「RENEW2021」の直前に取材させていただきました。
滝製紙所は1875年に創業し、越前和紙の大紙を製造しています。機械漉きもされていますが、手漉き和紙では各種襖紙や全国唯一の襖判”檀紙(だんし)”等を製造されています。檀紙は楮(こうぞ)を原料として作られた縮緬状のしわを有する高級和紙のことです。大きさがイメージしにくいかもしれませんが、次の写真の机の上にあるのがその紙です。
手漉き創作和紙の作り方
手漉きで創作和紙を作る工程を簡単に見てみましょう。
原料の楮はすでに漂白叩解した状態で工場に保管されています。
これを水で溶かします。
ここに、「ねり」と呼ばれるものを入れてどろどろにします。「ねり」によって楮の繊維を均一に水の中に広げ、繊維をよく絡ませるために使います。この「ねり」の具合が非常に大切なのだそうです。「ねり」はトロロアオイという植物の根をつぶして水につけておくとドロドロの液体になります。スライムやトロロよりもサラサラな感じです。
このトロロアオイを「ねり」にするためには軟水が必要で、越前和紙の生産地である越前市大滝町ではこの「ねり」に最適な軟水が豊富に採水できるそうです。瀧さんが欧州で和紙実演するときにこの軟水が入手できず主催者にペットボトルの軟水ミネラルウォーターを用意していただき実演したそうです。
楮を水で溶かした中に「ねり」を投入し、均一になるようにかき混ぜます。この混ぜ具合によっても粘度が変わるため、手の感覚でその粘り具合を探りながらかき混ぜます。
この液体を簀子(すのこ)の上に流します。
すると、水が簀子の下に落ちていきます。この水の落ち方が「ねり」のどろどろ具合によって変わるのだそうです。
このときは、波柄をつけるということで、瀧さんご自身が水ノズルを巧みに操って柄を入れておられました。
そしてさらにこの上にもう一度楮+水+ねりの液体を注ぎます。
最後に細かいゴミなどを手で取り払います。
このあと、水を切った簀子をボイラー室でゆっくり乾燥させます。
こうして、滝製紙所の創作和紙は作られています。
* 正確にはこの前後や間にも工程がありますが、紙面の都合で省略しています。
背が小さくレゴ好きだった少年時代
ーー瀧さんはどんな少年時代を過ごされていたのですか?
とにかく体がちっちゃかった(小さかった)んです。小学校で列になるといつも一番前で、"前へならえ"で手を前に出したことはありませんでした。おもちゃをいろいろと買わないという方針の親でしたがレゴは買ってくれていたので、とにかくなんでもレゴで作っていました。乗り物とかなんでも。
ーー小さい頃から工場には出入りされていたのですか?
この工場にはほとんど来ていませんでした。ただ、近所に友達はいましたので遊びにはよく来ていました。紙漉きというと、小学校の卒業証書は学校にある紙漉き室で自分たちで漉いた紙で作りました。
ーー小学校に紙漉き室があるのですね!中学校以降はいかがですか?
中学校も小さかったので、なんとなく背が高くなるイメージでバレー部に入部しました。牛乳も一生懸命飲んでいました。高校生になるとぐっと背が大きくなりました。牛乳のおかげでしょうか?(笑)
ーー大学ではどんなバイトをされていましたか?
洋服屋でバイトしていたのですが、いろいろと任せてもらい、新たにオープンするカフェの店舗も任せてもらっていました。しかし、バイトに夢中になりすぎて大学が卒業できないなという感じになったため、そのバイトを辞め、河和田にある眼鏡店でIllustrator(イラストレータ)を使える人を募集していたのでそこでバイトをしていました。
学生時代はIllustratorを使ったバイト
ーー学生時代からAdobeのIllustratorを使えたのですか?
父親がデザイナーの川崎和男さんと和紙プロジェクトでご一緒させていただいていたこともあり、Macを使える、パソコンを使えるというのは大事だと父親に言われていました。そこで高校時代の夏休みにバイトの給与を一生懸命貯めて(父親も補助してくれましたが)MacとIllustratorを買いました。
ーーそのおかげでそんな面白いバイトをされていたんですね。
眼鏡のデザインをするというバイトでした。時給もよかったですし、働き方も自由でした。ぶっちゃけどのくらい役に立っていたのか不安ですが(笑)
ーーその頃からデザインのお仕事をしたかったのでしょうか?
今から思えば、中学校の三者面談のときに、先生に「何がしたいのか」と聞かれたんです。面談の後、父親に「何がしたいのか決めるまで部屋から出るな」と言われて、自分が何をしたいのかを真剣に考え「デザイナーになりたい」と答えたんです。父親は覚えていないと思いますが(笑)
デザイナーとして活躍
ーーそれでデザイナーを目指して就職されたんですか?
建材の内装材メーカーに入社しました。最初、デザイナーとしての仕事はしていなかったのですが、あるときに見本帳を作る仕事があったときに、外部のデザイナーに提示するための仮の案を作るという仕事がありました。そのときに、Illustratorを使って自分なりの案を作ってみたんです。そうしたところ、会社の人たちにすごく気に入ってもらえたんです。その結果その見本帳は私の案を基に制作してもらえました。
ーーすごいですね。いきなり評価されたんですね。
それまでは独学でデザインに取り組んでいたので、初めて評価されたことが嬉しかったです。それ以来自分のレベルが認識でき、他の人のチラシなどを真似て練習するようになりました。
ーー独学で学んでおられたんですね。
その後大阪にあるMacを使ったIllustratorの学校に夜通うようになりました。しかしその学校が倒産したので卒業できない状態になりました。その頃出会った大阪のデザイナーさんの会社に転職しました。転職する際に「福井に戻る気はないの?」と聞かれたのですが、そのときは「はい、戻る気はないです」と答えていました。
ーーデザイン会社ではどんなデザインをされていたのですか?
企業の商品のパンフレットや、ロゴマーク等をデザインしていました。ゼロから十までひととおり自分が担当するというやりがいのある仕事に取り組むことができるようになりました。やっとゼロから任せてもらったプロジェクトが終盤になった頃、弟から突然連絡が来たんです。
突然の工場の火事で福井に戻ることに
ーーどんなご連絡ですか?
会社の工場で火事だ、という連絡でした(編集部注:大滝町の工場ではなく機械製紙中心の鯖江の工場)。驚いてすぐに終電で大阪から福井に戻りました。翌朝工場を見てみると工場がすっかり燃えてしまっていました。すると、同業の製紙関係の人や元従業員の人たちが手伝いに来てくれていたんです。地元の人たちが支えるいい会社なんだな、ということに気づきました。
ーーそれで福井に戻ることにしたんですね。
戻ろうという雰囲気になり、父に戻りたいと話したところ、「わかった」と言われました。
ーーそれまでにお父様から戻らないかと言われたことはなかったのですか?
継げと言われたことは一度もありません。高校受験のときには「県外の高校に行けば?」と言われたこともありましたので、言葉を間に受けていました。
ーー瀧さんが戻ることになりお父様は喜んでおられました?
私にはそういう素振りは見せていませんでしたね。でも、戻ることになった途端に、すぐ「いつ帰ってくる?」と聞かれました(笑)
和紙の漉き方を一から学ぶ
ーー家業に戻られて最初にどういうお仕事をされたのですか?
父親から滝製紙所の工場見学をしろと言われ、しばらく工場見学をしながらいろんな現場のお手伝いをしていました。手漉きの工程はベテランのお姉さまたちが主に現場を担当していたのですが、そのお姉さまたちのお手伝いをすることが多くなりました。自然と手漉きを担当することがメインとなりました。手先が器用だったこともあり、数年間一生懸命取り組むうちに薄い紙を漉くだけではなく立体的な紙を漉いたらどうだろうと考えるようになりました。それ以来自分が中心で凹凸感のある紙を漉くようになりました。
ーー今のような紙を漉くようになったきっかけはどのような経緯でしょうか?
当時、和紙といえば照明がブームでした。デザイナーとマッチングして和紙を使った照明を作っている会社が多かったのです。しかし、だんだん紙を作るというよりも照明を売っているみたいになってきてしまいました。本来私たちは紙を漉く仕事ですので、照明器具メーカーさんに使ってもらう紙を作らないといけないと思っていました。素材として使ってもらう紙を作らないといけないと思うようになりました。
大判が得意なのに小物を作ってる?
ーーそれで小物など雑貨を作ったりされたんでしょうか?
B2C向けの商品を作ろうと考えて和紙を使った雑貨にも取り組みました。しおり、ノートみたいな製品です。展示会にも出していました。紙は坪単価(面積単価)が低い商品なのである程度形にしないといけないと考えていました。手にとってもらえるほうがいいと考えていたんです。
ーーしおり、ノートも和紙を広げるには良い取り組みですよね?
そうなんですが、ある展示会で、偶然立ち寄られた女性の方に「大紙が得意なのに小物を作るんですね」と言われたのです。そこではっとしまして、大紙として成り立つものを作ろうと思い始めたのです。
ーーそこで今のような店舗等で使ってもらえる大判の紙を漉くようになったんですね。
さらに、私は「一点ものの作家になりたくない」と思っていました。僕にしかできない紙にしたくない、滝製紙所としての紙づくりをしないと、と思うようになりました。職人として今日でも明日でも同じものを提供できる職人になりたいと思いました。
ホテル・アマンからの依頼
そうするうちに、アマンという東京のホテルから大量の枚数の注文を受けました。数百枚の注文でした。ロビーの吹き抜けの装飾のための紙です。ぜひ東京でご覧になってください。そのときに思ったんです。今日でも明日でも同じものを漉く技術を磨いていてよかったと。もしその技術がなければアマンのお仕事は受けられませんでした。
ーー今ではその技術が磨かれ、いろんなニーズに対応できるようになってきたんでしょうか?
はい。不動産や設計事務所の方々が物件やイメージにあった和紙の提案ができるようになりました。和紙を使って欲しいというよりも素材として和紙を使っていただければと思っています。
そういうお仕事を受けるうちに、いろいろなお仕事をいただくようになりました。世界的に有名な芸術家のテオ・ヤンセンさんからの依頼で船の作品の帆に使う和紙を作りました。風を受けても破れない強い紙を漉きました。この作品を見にオランダまで行きました。
家で使ってもらえるものを作りたい
ーー今後はどういう方向性で取り組みたいですか?
もともと、滝製紙所の和紙は襖(ふすま)で使われていました。昔は家の中の襖や障子(しょうじ)などに普通に和紙が使われていて、日常的に和紙に触れることがありましたが、今はそれが当たり前じゃなくなってきました。なので、昔のように和紙が身近に使われるようになると良いと思っています。知り合いの人が家を建てるときに声がかかることがあるのですが、そういう身近な人からの依頼が正直嬉しいという気もしています。そういう用途を増やしていくことを目標にしたいと考えています。
ーーどうして家庭で使っていただきたいと考えているのでしょうか?
本当は襖(ふすま)を漉きたいんです。もう福井でも大紙の流し漉きを専門で行う工場は数件しかありません。でも手漉きの襖はだんだん減ってきています。それを守りたいと思っています。
ーーでも手漉きの襖は高いんですよね?
一般の壁紙のほうが安すぎるのかもしれません。価格よりも、最近は「子供が壁に落書きしてもすぐ消せる壁紙」というものがありますが、そもそも本来は「壁は落書きしないもの」だと思っています。そのための躾(しつけ)とか設え(しつらえ)ということが大切な気がしています。そのためにも紙に魅力を持たせないといけないんだろうと思っています。そういうものに負けないようにしたいです。
編集後記
インタビューの後、瀧さんがポロッとおっしゃっていた言葉が印象に残っています。
「忙しいことは自慢したくありません。仕事一生懸命なことはいいことなんですが、生活にゆとりがないと、いいものに出会ったときに感じることができなくなります。」
瀧さんは毎日ご自宅に戻ってランチを作り、夜も奥様と帰宅の早い方が夕食を作っていらっしゃるのだそうです。そんな生活を大切にしつつ、魅力をもたせた越前和紙をこれからも漉いていかれるのだと感じました。