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noteのわたし

noteを始めてみて、自分で文章を書くこと以外にも、たくさんの方の文章をそっと覗かせていただく楽しさがあった。(知らない方のお家にそっと遊びに行くような・・・いや、それは不審者すぎるか)

会ったこともない、見たこともない知らない人の、誰にも打ち明けないような話や、深く考えた頭の中をそっと覗けるって、面白い。普通ならその人との関係があっても、そんな話をしてくれるとは限らないし、体験談やさらにその人の友達の話など聞けるはずもないこと。

でも、noteの世界は、そこをひとっ飛びして、見ることができてしまう。
もちろん関係性がないから、(今のところ)一方的なので、それについてさらに語り合うことはないのだけれど、ほ〜〜と思いながら、読ませてもらっています。

他のSNSとは違って、文章の長さだって、形態だってその人の自由。
誰かに読んでもらえるかな、読んでもらいたい、自分の気持ちの整理をしようかな、こんなことを記録していきたいな、自分って何なんだろう、好きなことって何かな、やっぱりこれが好きなんだから大切にしよう・・・などなど、みんなそれぞれたくさんの思いをもって書いている。


そうやって色々な文章を読んでいると、なんの前触れもなく、noteの更新がなくなっているアカウントに出会うことがある。
それまではポンポンと更新記事があったのに、突然、空いている。それが何年も前だったり。


または3つほど記事を更新して、その後何年も空いているもの。
最初の記事はnoteでこういうふうに書いていこう、と決意表明(?)している。

そのひとたちは、一体どこに行ってしまったのだろうか。

なんと言えばいいのか、うまく言葉にはできないのだけれど、突然その人がいなくなってしまったように感じる。その存在自体がなくなってしまったような。
全然知らない、会ったこと話したこともない人なのに、記事を通じてその人の考え方や感情や書き方を見て、その「誰か」がいることを感じているのだと思う。
私にとっては、その人の存在はそこでしかなくて、それがなくなってしまうと、まるでその人が消えてしまったように感じる。
もちろん、追いかけることも、今元気にしているか(余計なお世話だと思うが)なども分からない。それが、なんだか、さみしい。


noteって、なんだか、とても不思議なツールだなあ。


そんな私も、だいぶ長いあいだ、noteを更新していなかった。
まったく大した理由もなく、時が流れてしまっただけ。(旦那さんの勤務部署が変わり家族が多忙になったという理由はあるけれど)

noteを使うことが、毎日お風呂に入るように自然に生活に組み込まれている人は少ないと思う。

きっとみんな、そうやってなんとなく、noteから離れてしまうんだろうなあ、と考えた数ヶ月でした。
noteは、やめようと決断しなくても、絶対続けようとも思わなくても、誰も咎めない、自由に書くことができるところ。

えへへ、ちゃんと、私はいるよ〜〜^^

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