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サルトルの実存主義とスピノザの汎神論や仏教思想は対極

サルトルを代表とする実存主義において、「実存」とは個々の人間の**主観的で具体的な存在**を指しています。これは、近代の哲学的伝統、特にスピノザの汎神論やドイツ観念論、仏教思想との対比においては大きく異なるものです。


### 1. **サルトルの実存主義と「存在」**

サルトルの有名な命題として「**実存は本質に先立つ**」という考えがあります。これは、次のように理解できます。


- **実存**とは、個々の人間が具体的に「ここに存在している」という事実のことです。サルトルにとって、人間はまず**存在する(実存する)**のであって、その後に自らの選択や行動を通じて自分の**本質**を形成していくと考えます。

- これは、神や絶対的な本質、あるいは世界に普遍的に与えられた法則から人間の存在や本質が規定されるのではなく、**人間が自らの選択によって自由に自己を創り出す**ことを強調しています。


サルトルの実存主義では、神や絶対者の存在は前提とされておらず、人間が主体的に選び、行動することが根本的な存在のあり方だとされます。したがって、サルトルにとって存在するものは、「**自らの自由を通じて自己を形成する具体的な個人**」です。彼は、外部の絶対的な存在や価値に依存しない人間の自由を強調します。


### 2. **他の思想との対比**

- **スピノザの汎神論**では、存在するものは神であり、その神は全てのもの(自然や宇宙)と一体化しています。神と自然は同一であり、個々の人間や物質はその神の一部として考えられ、全体の中の表現にすぎません。スピノザにおいては、個人の自由や主体性は全体の自然的法則の一部として理解されます。

- **ドイツ観念論**(特にヘーゲル)においても、存在するものは「絶対精神」や「世界精神」といった全体的な理念や意識であり、個人はその発展過程の一部と見なされます。個人は全体の一部として、本質的にその「精神」の表現であるとされます。

- **仏教の唯識論**では、存在するものは全て心の作用や因果の連鎖によって生じているとされ、個々の存在者という固定的なものは存在せず、因果や認識の過程が強調されます。つまり、永続的な「我」や固定的な存在は仏教思想では否定され、全ては変化し続けるプロセスの一部として理解されます。


### 3. **サルトルの実存と他の存在論との違い**

サルトルは、これらの全体論的・抽象的な存在理解に対して、**個別的で具体的な「人間」という存在を中心**に据えます。彼の実存主義では、個々の人間が自らの自由によって存在し、選択し、行動することが最も根本的な存在のあり方です。


- スピノザやドイツ観念論では、人間は全体の中での部分や表現であり、全体的な法則や精神に支配されていますが、サルトルの実存主義では、**人間は何者にも縛られない自由な存在**です。

- 仏教思想では、個人の固定的な存在が否定され、存在の背後にある因果のプロセスが強調されますが、サルトルの実存主義では、**個々の人間が自己を選び、形成する自由を持つ具体的な存在**として強調されます。


### 結論

サルトルの実存主義における「実存」は、神や世界精神の一部としてではなく、また因果律によって規定されるものでもなく、**自由で主体的な個人の存在そのもの**を指します。人間は自ら選択を行い、その選択に責任を持ちながら、自己を形成していく存在であり、その自由と責任の中で自らの「本質」を作り出していくのです。一方でスピノザの汎神論や仏教思想は、自然や因果の中で実体ではなく、はかない存在としての人間を考えており、謙虚さを感じます。

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