読み物が紡ぐ秋 #書もつ
タイトルも作家も知っているけれど、読んでいなかった作品だった。
書簡によって進む物語、書き手の記憶だけを口語体で語っている。ともすれば独りよがりの、僕のような外側の読み手を否定しそうな形式だった。
しかし違っていた。不思議と引き込まれてしまうのは、窓の隙間から覗き見るような、ちょっとしたスリルがあるからかもしれない。
何か見てはいけないものを盗み読みしているような、抽斗の奥から発掘したような。言葉を選ばずに言えば、取るに足らない男女の愛憎の垂れ流しなのだけれど、どうしても先を知りたくなる。
何だか、落ち着かないのだ。
錦繍
宮本輝
作者は、なぜこの言葉をタイトルに充てたのだろうか。あれやこれや推測はしていた。読み始めてみると、この小説に出てくる人物たちが一様に悪者に思えた。
何かを隠し、誰かを欺き、自らを可愛がる。他人を信じず、愛情を否定する。
なんと恐ろしい人間関係なのだろうか、美しさに翻弄され、傲慢さに依存する、そんな古びた人間味が明るみにされ、これは読み進めるべきなのかと思ったこともあった。
ただ、書簡は読み手を無視して進んでいく。それはそうだ、手紙の書き手は書きたくてたまらないのだ。“時間がなくなって筆を置く”ということまで書いてあるのが、リアルというよりもむしろ微笑ましいほどの演出だった。
手紙を送ってくれるな、と突っぱねておいて、しかし優しさなのか好奇心なのか、届けられた手紙をしかと読む。
男女の仲などと書けば俗っぽくて嫌気がさす。ただ、この作品も含め、恋愛小説の類はきっと切り取っている段階の問題なのだと思う。この作品は、恋愛の中でも結婚と離婚を終えた段階であり、それは読み手には全く想像もできない世界だった。
書簡のやりとりは主人公である女性側からの投げかけが多かった。通数も女性側が多いだろう。それは、男性に対する未練のように思えたが、違った。むしろ、男性に対する反論のような、もしくは激励のようでもあった。
男性がとある事件の際、死の淵で悟ったことを、こう書いていた。
妻帯者でありながら、過去の女に耽溺する自らの生き方が、果たして違っていたのだと痛切に感じ入る場面である。いわば黒歴史に殴られているような感覚なのだろう。それを読者も味わうことになった。
古めかしく、現実離れした作品かと思っていたが、この場面から先、それまで悪人だと思い込んでいた登場人物たちが、柔らかく鮮やかになった。何なら笑顔まで思い浮かべられた。
物語は緩やかに終わりに向かい、その景色は清々しく、とても美しくなっていくようだった。作者の意図はここにあったのかもしれない。
さまざまな季節を経て、麗しくも寂しげな秋という季節がもっとも美しいのだと、人生の半ばに差し掛かった登場人物たちと同じように、読み手もまた麗しい景色が目の前にあるような気がした。
宮本輝と吉本ばななの対談作品も。