未来の読み手へ #書もつ
いい文章を書く方法とか、読んでもらうための文章術とか、そういう「書いている人」向けの本ではない。誰にでも、するりと読み始められる。タイトルの意味を、じんわりと考えながら読み進めていくと、書きたくなってくる。
書いていない人に向けて、書いたことがない人に向けて、丁寧に丁寧に語りかけてくるような雰囲気があった。文字通り、書くことで生きている著者の、渾身のしかし優しい物語のような指南書だった。
さみしい夜にはペンを持て
古賀史健
ライターである著者の作品には、書き方を教えるものが多い。ただ、その語り口は常体の「だ・である」調であることもあって、読み手としては先生と生徒のような立場で読み進めていくような心境になっていた。
しかし、この作品は違った。
表紙が明るくて、かわいい。明らかに大人向けではないし、僕のような年齢の男性が手にしているのはちょっと違和感があるのではないかと思うほどである。
それもそのはず、この作品は中学生くらいの子どもたちに向けて書かれた本で、設定も海の中で、そこで暮らす動物たちが登場する、ファンタジー要素のある不思議な作品だった。思春期に感じる疎外感、孤独感へのひとつの提案として、瑞々しさすら感じていた。癒されるような、不思議な時間だった。
著者の出世作とも言えるアドラー心理学のあの作品を思わせるような人と人との関わり方や、その語り口に優しさを感じる。作中、何度も語られる言葉の意味や、書くことの効果などは、常日頃感じているけれど上手く言葉にできないし、まして子どもに伝えていなかったなぁと身につまされる思いがした。
ともあれ、子どもに読んで欲しい本かどうかを知りたくて、という大人の都合を引き合いに出してみるけれど、大人でもとても楽しめた。毎日書いていても釈然としなかった”書くことの神秘”みたいなものが、明るみになったような気がした。ひとりでなければ書けないこと、ひとりだから書けること、書くことへの希望があちらこちらに見えた。
親の目線で考えてしまうのは、我が子が、このタイトルのような”さみしい夜を迎えてしまったとき”のことだ。介入もできないだろうし、してほしくもないだろう。この作品を読んでいる間は、書くことを選び取って欲しい、なんて思ってしまう。
日記を書くことで、日記を読み返すことで、自らを再発見し励ますことができるかもしれない、と知っていたら、もしかしたら僕は日記を続けていたのかもしれない。
日記を毎日書いていたら、もしかしたら別の人生だったかもしれない。
ただ、noteにこうして書くこともなかったかもしれない。
著者は、学校で書く文章は少なからずある傾向に囚われると説いていた。思いがけず、当時の僕が「文章を書くのが上手い」と思っていた理由がわかった。だからこそ、こうしてnoteにエッセイを書いているのかもしれないと思うと、この作品に出会った意味を掴んだように感じた。
書くことの保存性のような価値に、ずっと前から憧れていたのかもしれない。