自己肯定感
先行研究
「自己肯定感」という言葉が持て囃されて久しい。
今や多くの人が「自己肯定感」という単語を聞いた時に「え、それってどういう意味?」とは聞き返さないのではないだろうか。
一方でその意味をもし聞き返された時にスマートに応えられる人も少ないと思う。同時に「自己肯定感」という単語が示す感情、心情を自身の中でしっかりと見つけ区別出来ている人も少ないと思う。
それも当然で今や聞きなれたこの言葉も、心理学の分野においても日本で研究が始まったのは2000年代で、単語自体1988年の論文の発表が初めてだ。ここ20余年の心理学分野の専門用語なのである。
(ここから先、次章までは少し専門的な話なので分かりづらかったら飛ばしてもいい)
そしてもしかすると意外かもしれないが、「自己肯定感」という言葉の定義は心理学の分野においてもそもそも定義が定まっていない。
「自己肯定感」という単語の定義づけを各論文で(主旨はほぼ同じだが微妙に重視する要素の異なるニュアンスの言い回しで)再定義しなおし、その上で因子分析(どういった要素がその感情に関係するかの統計処理)を現在進行形で行っている状況だ。
イマイチ学術的な話なのでイメージが湧きづらいかもしれないが、例としては以下のような感じだ。
まぁ、自動車だとメーカーに聞けば教えてくれそうなものだが、心理学はそう簡単にいかない。誰だって目に見えず変わり続ける自分の心を明確に切り分けて説明するのは難しいのだから。
それ故に心理学は基本的に、アンケートを取ってそれを因子分析とか重回帰分析といった統計処理を行って、人間の心理を体系的に説明しようとする学問なのである。
と、ここまで説明してきたが、所詮大学の心理学部を中退した人間の説明なので間違っていたり情報が古かったら申し訳ない。
自己肯定感を定義してみる
ややこしい話は置いておいて、ともかく、今現在だと「自己肯定感」という誰もが耳にしたことのあるこの言葉は「なんとなくアレでしょアレ」の域にあり、その厳密な定義には諸説ある段階だ、ということだ。
なのでここで一つ諸説を提言してみよう、というのが今日の話だ。
本来であればちゃんとアンケートを取って統計処理をかけるべきなのだが、そこまでの力は無いので、あくまで仮説としての提言に留めるということは先に名言しておく。
自己肯定感を構成する4要素
自己肯定感という言葉は折に触れて使用されるが、細かく考えると前後の文脈によって微妙にニュアンスというか、その示す内容が異なることが多々あるというのは何となく頷いてもらえるのではないだろうか。
その理由は「自己肯定感」という言葉は以下の4つの要素の総合値的なものだからだと考える。
自己効力感
(自分が行動することで何かが変わるという感覚)自己有能感
(自分は他者に誇れるスキルや経験があるという感覚)自己生命感
(自分の生命が価値あるものだと思う感情)自己受容感
(現実の自分の良い所悪い所を含めてそのまま受け入れる感覚)
以下でそれぞれを解説していこう。
尚どれも既存の単語であり、ほぼほぼ同じ意義で使用しているが、厳密にはニュアンスが違うこともある。
自己効力感
自分が行動することで、何かが変わる、変えられるという感覚。
分かりやすく言うと、「頑張れば報われる」という感覚のことだ。
真逆の分かりやすい単語で言えば「慢性的無力感」にあたる。
人は生きていく中で必ず困難に直面する。そういった事態に対して、願わくば好ましい状況に変えようと人は行動するのだが、当然全てが思い通りになるわけではない。
ゲーム的に言えば、50%の確率で成功するミッションで、成功する50%を引けるという感覚のことだ。
(スパロボでは自己効力感は低い。知らんけど)
当然現実では明確なパーセンテージなど分からない。その中でどれだけやり遂げられると信じられるか。
これだけ聞くと単にポジティブ、ネガティブの話のようにも思えるが、自己効力感は単なる感情の問題に留まらず、自身の成功体験の多少に基づく経験則的判断でもあると思われる。
これは個人的な見解でありどこまで一般化出来るかは不明だが、この感覚は「世界に受け入れられている感覚」とも密接に関係していると思う。
他の人と全く同じ能力で、環境で、行動をしたとして、隣の奴は成功して自分は失敗する。それは単に世界に自分が疎まれているから。
論理的に考えれば失敗には理由があって、それを改善していけばいずれ成功するのだろうが、そういった理屈を超えた無力感が私にはある、みたいなことを過去にも書いた。
そういった経緯もあり、私はこの感覚は世界とか社会に対応した感覚と考える。
自身の生を通して、この世界、社会に対してどこまで有利に立ち回れるか、という幾分メタな感覚ではないか、という仮説である。
自己有能感
自分は他者に誇れるスキルや経験があるという感覚。
「得意なことは何?」と聞かれて臆面無く言える感覚であったり、所属するコミュニティーに貢献しているという感覚である。
他者との比較なく自分を生きる、それは素晴らしそうな生き方に聞こえるが、特に現代日本に於いてそれはとても難しい。
学力は数値化され、性格診断でグラフ化され、スキルは異世界で999になる。
能力の高低は絶対的な物と言うよりかは他者との相対的なものだ。世界レベルで比較してしまえば幾らでも上には上があるし、世界1になれるのは何時だって一人しかいない。
ならば世界1位以外自己肯定感を高めえないのかというと、勿論そうではない。
要は自分の持つ能力を誇れるか、他者に評価してもらえるか。
そういったある程度限られた、自身が普段接する周囲の環境によって形成される感覚である。
あくまでベースは普段接する周囲の環境によって形成される感覚と考えられるが、何を周囲と考えるかは当然人によって異なる。
周囲が偏差値55の学力を持っていた所で、偏差値60↑の学友に囲まれていればやはり低くなったし(経験談)、野球部内で一番だったとしても甲子園の同世代のエースとばかり自分を比べたらやはり低くなる。逆も然り、井の中の蛙大海を知らず。
また有能感は相対的な要素が大きいので、それなりの危険性を孕んでいる。
具体的に言えば、俊足自慢が交通事故で足を失えば不安定になるし、ケンカ自慢がプロボクサーの世界に飛び込めば自信を失う。
自己肯定感を分かりやすく上下させる要素ではあるが、同時に不安定な要素でもある。自己肯定感がこれ頼りになるのは少々危ういだろう。
自己生命感
自分の命が価値あるものだと思う感覚。
自分は他者とは違う特別な存在で、そしてそれ故に無条件に価値があると思える感覚。
中々説明が難しいのだが「自分の生命そのもの」を肯定する感覚だ。
多くの場合、私の区別しているこの自己生命感と自己受容はひっくるめて語られることが多く、それを「自己肯定感」と表現される。
故にそれを言語によって表現するのは難しいのだが、私の中では異なる。と、感じている。私自身未だ論理的に区別出来ているとは言えないのだが、直感的に違うと感じ、それ故に「自己生命感」なんて造語を作ってまで分けた次第だ。
言い訳はここまでだ。
ポイントとなるのは、焦点が自分の存在自体にあるということ、そしてその存在が他者との比較の中にあるということだ。
先述の「特別」というのは必ずしも「優れている」というニュアンスを含まない。ただ、「明確に他者と異なり、替えの効かないもの」という意義だ。オリジナリティというのが近いかもしれない。
そういった独自性と密接に関わった、生きている時点でもう価値があるんだ、という感覚だ。
後述の自己受容と比較すると、自己受容が後天的な成長にフォーカスしているのに対し、自己生命感は先天的な、生来の自分にフォーカスしている。
何が自分が好きか、嫌いか。どんな経験をしたか、積んだか。どんな感情を抱いて、どんな思考をするか。
それらは時に社会的には良し悪しを定められるかもしれない。しかし無文化な自然状態では、決してそれは全も悪も無く、ただ肯定されるのだ。
こういった感覚は、推測だが肉親、或いは恋人や親友、敬愛する恩師といった人生に於いても限られる極一部にのみ影響されるものと考える。
親のネグレクト、或いは過度に厳しい教育などによって大きく傷ついたり、これを無理に補おうと恋愛においてヤンデレになったり相手をとっかえひっかえしたり、”レ・ミゼラブル”のジャン・バルジャンが司教に出会ったように生き方が変わることもある。
実は他の3つと比較しても特に自己肯定感の基盤となりやすいものである一方で、傷つくと非常に修復の難しいものと考えられる。
自己受容感
現実の自分の良い所悪い所を含めてそのまま受け入れる感覚。
想像しづらいように思えて、一部の人にとっては逆に馴染みのある概念かもしれない。
大抵の人は「あんな自分になりたい、ならなきゃ」みたいな理想の自分像がある。
一方で現実の自分は理想とかけ離れていて、そのギャップに悩むんだ経験のある人も多いだろう。
そのギャップを自覚した上で、それでも悪い所のある自分でも良いんだという受容感を意味している。
前述の自己生命感と似ているように思えるが、こちらは明確に「善悪」「良し悪し」の概念が自らの中にある。
その上で不完全な自分を受け入れるという心構えである。
ポイントは自己生命感と異なり、あくまで自己完結する内省的なものであることである。
評価の起点による分類
何故わざわざ自己肯定感を上位に置き、その下位因子として4つを区別して分類したか。そしてそれによって示したい意義は。
本記事の本題である。
4要素を読まれた方は気付いたかもしれない。
本仮説では4つの要素を評価の起点によって、対応する要素を分類している。
自己効力感ー-世界や社会
自己有能感ー-周囲の人々
自己生命感ー-親しい人々
自己受容感ー-自分自身
人が自分を直視しても、一人では外見か、或いは理想と現実の自分でしか違いを認識できない。
故に接する他者によって己を認識する。他者は自分を映す鏡だ、というのは何処かで聞いたことのある言葉ではないだろうか。
極例
自己肯定感というのはなんとなく分かったようでいて、具体的には自分の中に見つけづらい物。
最近では、狭義的には「ありのままの自分を受け入れること」なんて言われて余計に混乱する。
そんな「自己肯定感」、そんな今回の文脈では「自己評価」に近い肯定感は4つの要素の総合点的なものではないかという仮説だ。
分かりづらいので極端な例で例えてみよう。
自己効力感だけが高い例(スラム街の少年
自己有能感(勘違い貴族
自己生命感(目の見えない車椅子少女
自己受容感(ぬけさく
全部ズレてる人(サイコパス的な
まとめ
最後のは少し異色置いておくとして、これらの話の主人公は「自己肯定感」が低そうに見えるだろうか?
他が低くても突出した一つに支えられて、案外自己肯定感というか、主観的幸福感は保てている。それぞれ違った感覚を頼りに。
そして最後のから分かるように、突き詰めると自分がどう認識しているかでしかない。
どれも極端な例ではあったが、最も主張したかったのは以下のことだ。
自己肯定感は4つの要素で構成されており、それぞれの要素はそれぞれ対応したものを鏡として最終的には主観で形成される。
自己肯定感を上げるためにはそれを理解した上で、意図的に対応した環境を変える事で改善を望める。
世界は変えられないかもしれないが、あくまで主観であることがカギである。難しいことに変わりは無いが主観を転換させるような仕掛けがあれば自己効力感も変えられる。
自己有能感を上げたいなら比較する対象を変えれば良い。世界規模からクラス規模へ。或いは自分より能力が低い人間ばかり集まるところに移動するのも有りだろう。
自己生命感もまた難しい。親は変えられない。だからまぁ、親しいと思う肯定してくれる人を作ろう。
自己受容感は完璧主義をやめるのが第一だ。原因は内側にある。
そして別に全てを上げる必要すらない。
どれか一つを頼りに自己肯定感を保つこと自体は出来る。
大事なのはそれぞれの因果関係を把握し、どんな荒療治がどんな危険性を孕んでいるかを予測できるようになること。どんな今がどんな不安定さを持っているかを自覚できるようになること。
……腹が減って思考力が鈍ってきた。
ともかく、自己肯定感というのは幾つかの種類があって、特に混同されがちな自己生命感と自己受容感が別物であるというのが一番この仮説のオリジナリティがあると思っているところである。
前者が条件なしで他者から得るもの、後者が条件ありで自身から得るもの。
本来仮説を証明するためにアンケートを取って統計処理をするべきなのだが、まだその力は無い。
ただまぁ、それを出来たらいいなと思考整理していたのを、きちんと形に残すための途中経過がこれである。
諸々の不手際はお目こぼしいただきたい。
以上
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