座学と痛み
今回は、自分の経験と痛みが詰まった文章である。
大学生の今、たくさんのことを学びたい。いろんな分野を知りたい。人間として成長したい。そう思って日々を過ごす。本を読んだり、人の話を聞いたり、セミナーに出たりする。しかし、思い返せば案外身についていなかったりする。気を取り直してもう少し本を読んでみたりするが、どうにも確かな成長の実感が湧かない。本を読み終えたり、セミナーを聞き終えたりしたとき、瞬間的な成長感はあっても、時間が経って振り返ると以前とあまり変わっていないような気がする。
確かに、自分の成長を自分で測るのは非常に難しいし、何をもって「成長」とするかを決めることも難しい。そもそも「成長」を短期的に求めることが間違っているのかもしれない。しかし、自分から行動を起こしたからには、「成長」という見返りが欲しいものである。経験上、何かしらのフィードバックがなければ当初のやる気は減衰し、行動は継続しにくい。
なぜ成長が感じられないのか。それは、自分の行動が座学にとどまっているからであると考える。座学とは、椅子に座ったまま学びを得ようとすることである。
今回は、「座学」について私なりに書いてみたい。私は何も分かっていない大学生の身であるが、「成長したい」と考える人にとって自分の行動を振り返るきっかけになれば幸いである。
座学の性質
まず、座学とはどういうものかを説明する。
先ほども書いたが、座学とは座ったまま学びを得ようとすることである。それは読書であったり、動画を見ることであったり、人の話をじっと聞くことであったりする。
座学はとても効率がいい。たった数時間や数日あれば、重厚な本から先人の知恵を学べる。たった2時間で起業家の波瀾万丈な生き様が知れる。15分の動画で最近のトレンドがわかる。このように、スピード感を持って自分の興味のあることをインプットできる。そして今度はその知識を自分の人生に活かしていく。なんともお手軽である。
痛みのない座学
座学にはもう一つ重要な性質がある。それは「痛みが伴わない」ということである。先ほどの「効率がいい」の裏返しである。
座学は心地よい。失敗したときの痛みを考えなくて良いからである。自分は座っているだけで、使えそうな知識や知見が得られる。瞬間的には、自分が少しでも成長した気がする。どこかパワーアップしたような感覚がある。この快感はもはや麻薬である。
座学の快感を覚えると、椅子から離れられなくなる。つまり、腰を上げて自分から挑戦する気がなくなってくる。痛みを感じずに達成感を覚えられ、自分が何かを成し遂げた気分になるからである。実際は何もしていないのに。その感覚は刹那的なものであるから、すぐにまた成長の不安に駆られる。そしてまた座学に戻ってかりそめの達成感を求める。
こうした座学の先には何があるのだろうか。おそらく、中途半端な批評家になる。本や人から得た半端な知識を武器に、自分から挑戦を起こそうとせず、第三者的な目線からアドバイスを送る人になる。また、自分に知識と経験があると過信し、周りより優秀であると思い込む。あるいは、「成長できていない」と不安に感じつつも、痛みを感じることを避けてきたためにリスクを取れない人になる。実体験だが、こうなるとどうにも辛い。自分の価値を感じにくくなる。
痛みのない座学は、どこまで行っても受動的である。座学の痛みといえば、腰が痛いくらいである。
立学のすすめ
専門家にも素人にもなりきれない中途半端な批評家にはなりたくない。また、失敗を恐れてながら漠然とした不安に悩むこともしたくはない。
そこで、「立学」という考え方をしてみる。椅子に座ったまま学びを得るのではなく、その椅子から立ち上がるのである。
立学では、座ったままでは得られない学びを求める。出発点は座学のこともある。その場合、座学で得られた知識を確かめにいくのである。コミュニケーション術を学んだなら、それを友達との会話で実践してみる。ビジネスや経営の知識が得られたのなら、それをインターンやビジコンで活用してみる。文章の書き方を学んだのなら、実際にエッセイを書いて友人に見てもらう。
もちろん立学には痛みが伴う。座学と違って自己完結するのではなく、他者の目が登場するからである。失敗することも多々ある。失敗の方が多いような気もする。しかしその痛みこそが強烈に記憶に残り、後になって成長を実感させてくれるものとなると思う。痛みがあるからこそ、「座学で言っていたことは、こういうことだったのか」と身をもって理解できる。
立学を繰り返すと、座学の知識を基盤に自分なりの考えがまとまっていく。座学を鵜呑みにしてわかったフリをするのではなく、自分の立学を踏まえて行動できるようになる。このように自分なりの考え方や哲学を形成し、それに則して行動できたときが、「成長」を実感するタイミングのような気がする。自分なりの考え方や行動指針が確立されたとき、それは大きな自信につながる。
最初から座学をしないという選択肢もある。いきなり立学から入るのである。自分の興味のあることに果敢に飛び込んでいく。座学の予備知識がないから、失敗ばかりであるし、全身傷だらけである。そうしていい感じに傷を負い、筋肉痛になったタイミングで座学を受ける。傷をさすりながら、座学で自分の現在地を把握して、また立学に戻る。すると今度は先ほどよりもうまくいくこともある。案外こっちの方が座学先行よりも効果的なのかもしれない。
最後に
ここまで座学を批判する形で書いてきたが、大前提として「成長」を求めて行動するのは非常に素晴らしいことだと思っている。それは座学も立学も同じである。何も行動を起こさず、いつまでも防御に徹しているよりはずっと良い。ただ、確かな成長の実感を得るためには、多少の痛みが必要であると思う。その痛みがあることで、わかったふりから脱却できるのだと思う。
ぜひ、椅子から立ちあがろう。自分の脚で歩き回って、自分の目で物事を見に行こう。体験しに行こう。座学では脳内の世界が変わるだけだが、立学では現実の世界も変わる。
「成長や学びには苦労が必要である」との主張にも思えるかもしれない。もちろん不必要な苦労はいらないし、最短距離で目標まで辿り着きたい。先ほども言った通り、やはり座学は効率がいい。楽して行けるなら願ったり叶ったりである。でも、その経験が受動的なものでなく、しっかりと自分の血肉になっていることを確認したい。受動的ならば、勘違いしている可能性が高い。能動的に、主体的に行動を起こし、それでも痛みが生じなかったのならば、それは自分がその分野が得意で優秀であったことの証明になる。
椅子から立ち上がったからといって必ずしも「成長」が待っているとは限らない。むしろ失敗の方が多い気もする。それでも、私が尊敬できる人たちは立ち上がっているような気がする。今、自分は椅子に座っているのか、立っているのかを自問するタイミングを取りたい。勘違いをせず、自分が座学をしていることに気づけるようにしたい。そしてあまりにも長く座っているなら、腰を痛めないように立ち上がるようにしたい。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?