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⑤元ヤングケアラー: 認知症の祖父母の在宅介護と理想の看取り経験

私は、大好きだった祖母の死が
きっかけで介護職に就きました。

まだ中学生2年生だったと思います。
日に日におかしくなっていく
祖母の変化に、どう対応して良いのか分かりませんでした。
携帯電話もない時代に、
いつ・どこに出掛けたのか分からない祖母の帰りを待つことに
願いは1つ。

《 おばあちゃん、
無事に帰ってきてぇ...涙 》

いつか近所に出掛けた時は、
帰ってきたら顔が血だらけで
ビックリ...。
あれは怖すぎた…。

今なら原因が分かるのですが、
その時は何が起きたのか
聞くことも出来ず、
怖かった感情しか覚えていません。

きっと、歩行が不安定で
転んだのですよね。

自宅でもトイレに行く時に
転んで頭を打ち、意識消失。
救急搬送・・・。
意識消失なんて言葉も
知っていたか知らなかったか
忘れましたが、
死んでしまったかと思い、
ドキドキ。驚きました…。

要介護5がつくまで11年。
まずは14歳から25歳までの間、
(その頃はまだ会社員だったので)
知識のない中の手探り介護でした。

親戚は近くにいても寄り付かず、
家族は祖父が抱えた借金返済
(※②の記事)の為に
朝から晩まで働いていました。

悪い夢(…と思いたい。)は、
まだ終わりません。

ある日の夜、
両親が深刻な顔で話をしていました。
父の会社が計画倒産したようで
社長が夜逃げをし、
退職金が出ないようなことが
聞こえました。

母の精神状態が悪化し、
祖母の頭を掴んで外に
出そうとしたり…
バイトがおわって帰宅すると、
家の中がめちゃくちゃになっていて
外まで聞こえるケンカが
嫌で嫌で…。
いつ家庭の中で事件が起きても
おかしくない。
そんな感じでした。

その頃、高校生だった私は
バイトを2つかけもちして
18歳で一家の大黒柱に
なったのです。

祖母も母も支えないといけません…。

誰にも相談できなかった。

ちょっぴり人に話したことが
あったけど、
「もっと大変な人がいるよ」と、
言われてしまい…
人を頼るのをやめて1人で
悩んでいました。

そしてある日の夕方のことです。
突然うめき声が聞こえ、
自宅ベッドで、
祖母はあっけなく
亡くなりました。
多発性脳梗塞でした。

この時は後悔が残り、
まだ出来たことがあっただろうと
泣いてばかりいたのです。



「祖母に出来なかったことを、
したい。」
そう思ってから直ぐに行動です。

会社員で働きながら、
介護の資格を取りに行き、
仕事が休みの日は
ボランティアで施設の手伝いを
させてもらったりして、
お年寄りの笑顔を見ていると
何だか祖母が応援してくれてる
ような感じがしたのです。

会社員から介護員になりました。

いろいろな施設経験を重ねて
時は流れ、
どんな状態でも対応できる
スキルも身につき、
今度は祖父の介護が始まります。

祖母の認知症とは
全く違うものでした。

祖父は、よく昼夜逆転して
夜になると活動する為、
毎日寝不足のまま、
生活をしていました。
翌日が早番勤務の日なんて、
ほぼ寝ていません。
寝てしまうと反対に
起きられなくなってしまうので、
夜勤からの早番状態でした。

「家で、よく介護してるねー…。
施設に入れないの??
危ないよ、からだ壊すよ…。」
よく言われました。。。

でも、ウチには他の記事で
書きましたが、施設に入れる
お金なんてありません。

命が削れようが、
どんなに大変だろうが、
憎しみや怒りがあろうが…
自宅で看るしかなかったのです。

認知症の在宅介護をナメてはいけません。

徘徊があれば、
24時間365日気を張っています。

時に突き飛ばされ、
時に噛まれ、
理不尽なことを言われて
殺意が芽生えるほどになりますが、
生かされているので放置する訳には
いきません。
(下手したら介護放棄で虐待に
なります。)

仕事では、
同じ認知症の利用者さんに、
にこにこにっこり、優しく
うまーく気持ちを引き出して
声がけをしますが、
家族には仕事のような訳にはいきません。
スピーチロック(※待ってて!!ダメ!!)
しまくりです。

祖父は、事件に巻き込まれてから
全く働かなくなり
毎日パチンコに出掛けていて、
自分勝手に生きていました。
貯金もキレイに使い果たして
くれていて、
最後まで苦労しました。

それでも前世で
徳を積んだ人なのでしょうか…。
デイサービスでも、
訪問看護の方にもケアマネさんにも
恵まれ、
カワイイおじいちゃんとして、
沢山お世話していただきました。

いろいろありながらも
家族で一生懸命に介護し、
徐々に食べられなくなってきて
「骨と皮になってきたね…。」
なんて話していた頃、
お迎え現象(あの世にいる人が
何人か現れていた様子)が
出てきたり、
眠っている時間が長くなり、
おしっこが出なくなりました。

これが4月3日の出来事で、
それから
「今月いっぱいだな。
覚悟しておいて。」と、
主治医から言われたのです。

4月18日には、日中
側臥位(横向き)にしていて
体の向きを変えようとしたとき、
もうすでに目が、
どこか違う世界を見ている
感じでした。

近い親戚を呼び、
みんなが集まるまで省エネモードで
待っていたのでしょう。

かすかに触れる脈
(鼠径部辺りでしか、感じられなかった。)と、
いびきのようなグーグーとした
寝息が続き、
聴覚だけは最後まで残ると
いうので、
みんなで声をかけ…

日付けが変わった4月19日の6時頃。

唇がピクっと動くと、
気がつかないくらい自然に
息を引き取りました。

「ありがとう」だったのかな…?

98歳の大往生。

いつも冷たかった祖父の手が、
最後はとても温かったことが
忘れられません。

14歳から始まった介護生活は、
40歳の春で、
一旦終了しました。

祖父には悔いはありません。

きっと祖母も、
いろんな面で力になっていてくれたと
思います。

とても理想の最期を迎えた祖父。

私は訪問介護員として利用者さんと
関わる中で、
自分がその人にとって
“最後に出会うかもしれない人”と
いうことを意識しています。

全ての人が理想の最期を
迎えられるわけではない…。
「また来週来ますね」の間に
急に亡くなってしまうこともある。

だからいつも
「今日もありがとうございました!!
来週もまた、お互いに元気で
お会いしましょうね ^_^ 」と、
願いも込めて
とびきりの笑顔で退室しています。


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