魂はすり減らさないで生きて良い:松田青子『持続可能な魂の利用』
少女が「おじさん」から「自由」になるまで。
松田青子初の長編小説『持続的な魂の利用』は、常に防衛するのが当たり前の、「普通の生活」を日々送っている日本の女性たちの物語だ。
作中、断片的に敬子たちの記録を語るのは、おそらく彼女たち「以後」の世界の住人である誰か。近未来的なイメージを孕みながら、彼女たちの静かなレジスタンスが進行していく。
その1人である敬子は、最悪な理由で失職したばかりの30代の女性。妹が恋人と住むカナダから帰国してきた彼女は、途方もない計画を宿しながら暮らしている。そんな最中、あるアイドルに目を奪われるのだ。そんな敬子は思う。
理不尽なことや、うまくいかないことがあるたびに、魂は減る。
だから私たちは、魂を持続させて、長持ちさせて生きていかなくてはいけない。そのために趣味や推しをつくるのだ。
ここで語られる「おじさん」は年齢性別に関係なく存在する人間のことだ。家父長制や男尊女卑と思想、価値観を内包する「おじさん」。というよりも「おじさん」は、そういった思想そのものの具現化であるといえば良いのかもしれない。
小さい頃からずっとずっと私たちのそばにいた「おじさん」。私も大人になるまでにその存在に慣らされて、共存するべきだと、さらには従うべきなんだとすら、無理に思い込もうとしてきた。
アイドル××が「おじさん」に創り出された存在だと分かりながらも、敬子は彼女に強く惹かれる。彼女は、媚びたように笑わない。
笑顔が万能の武器であると何かに信じ込まされてきた私は、悲しい時も悔しい時も、理不尽な思いをした時も笑顔でいるべきだと教えられてきたように思う。「誰とでも仲良く」するように。女は愛嬌、というやつだ。ずっと違和感はあったが、確かに愛嬌はあった方がいいし、とそこに根付く問題を巧妙にすり替えて生きてきた。
作中で1場面だけ、男性が主体となっている部分がある。おそらく彼は(スカした)「おじさん」で、イギリスのパブを模した店で文庫本とエールを片手に、周囲の様子を眺めながら自分を取り巻く世界について思いを巡らせている。
いじりといじめ、束縛と友情を取り違えたまま、男の文化は何十年も、もしかしたら何百年も、膠着している。
そう考えている彼は、マウンティングは一般的な男の文化であり、その残酷さには無自覚なまま無邪気に続けられているものだ、と理解している。彼自身はその文化について呆れたり、居心地の悪さを覚えながらもうまく順応してきたようだ。辟易としながらも、自らもその輪の中に居続けている。
そして、「そこ」にいるために生じるストレスを解消するための理由として、自身の愚かな行動を正当化すらするのだ。少女にとってだけでなく、「おじさん」化することを怖れる少年にとっても、この世界がいかに恐ろしいかということがよくわかる名場面だと思う。
彼をめぐるエピソードの一部始終は、物語の重要な骨格となっている。恐ろしいのは、こんなことがきっと本当にあちこちで行われている、私が生きるこの現実だ。
苦しくて悔しい。でも、この物語は魂をすり減らしながら生きている人に必ず勇気を与えてくれるだろう。ただ絶望して従わなくて良い。声を上げて良い。味方がいるよと教えてくれるからだ。
I want more.
恋人エマと共にこの国を逃れた敬子の妹、美穂子は自らと同じ移民にどうしてこの国に移住したのか尋ねた。この言葉は彼らの返答であり、彼女に強く響いた言葉だ。美穂子はこう思う。
望むように生きられないのなら、生まれ育った国のアイデンティティーなんてなんの意味があるのだろう。
ふと力が抜けたように、私もそう言っていいんだと感じた。いつでも、自分はもっと欲しいと言っていい。別に黙っている必要はない。この世界をこの国を、私たちが育ったこの街を愛しているなら、馬鹿げたルールには従わないほうがいい。
今こそ私もピンクのスタンガンを手に持って、言いたいことを言う時だ。
I want more.
その声は「おじさん」ではなく、「おじさん」が運営してきたいろいろなものに、組織に、政府に、企業に、社会に向けて告げるべきだ。それはひょっとしたら、「おじさん」化された仲間の呪いも解いてくれるかもしれない。
『持続的な魂の利用』は美しくて切実なレジスタンスの物語。「ピンク」が嫌いだった小さい頃の私に、ピンクの魅力を知った私が届けたい本だ。