あわあわと、ゆらゆらと 『一場の夢と消え』
近松のおもしろさを教えてくれたのは
上方文化評論家を名乗るけったいな紳士だった。
学生時代に出会った講師なのだが
いつも口元にゆらり皮肉っぽい艶っぽい笑みを浮かべていた。
年齢も性別も超越したようなそのひとの持つ空気に
皆ちょっと引き気味というか距離をとるようにして接していた。
はっきり言って、我々にとっては、
気味がわるかったというか、得体の知れぬ空気をまとっていたのだ。
そいつが担当する上方学と題される講義はなぜか朝イチにあって
「朝からこんなに何の役にも立たない話を聞きに来られるなんて、
なんとも粋な方々ですね」
みたいなことを言って艶に笑う。
つらつらと話し突然思いついたように指して
問いを投げかけられた学生が言葉に詰まったりお気に召さない無粋なことを言うと変な髪形のそいつはいけずな嫌味を言ってちっとも面白くなさそうに口の端で笑っていた。
同時に師事していたのは
同じく大阪学や大阪にまつわるものをよく書くエッセイストで、
こてこての阪神ファンだが元新聞記者なのでかちっとしたものは勿論、
ライトなものを書いても芯が通っているというか「はっきり」していた。
一方、変な髪形の公家みたいな講師はゆらりゆらり「ぼんやり」でも「チクリ」。
当時は朝が苦手だったし演劇ばかりやっていたわたしは
授業をサボったりたまに行ったりするもこの講義においては
わりに「いい生徒」だった(気がする)。
古典の話や上方的思考や仏教的思想やいろんな話が面白かった。
ゆらりとした笑みの〝ナカミ〟を知りたかった。
演劇をやっていることを伝え「観にきてください」と伝えたら
「そうですかあなたは白石加代子ですか」とか笑いもせずにのたまい
達筆のメッセージと共にえらい豪勢な楽屋見舞いをくれた。
無事に公演が終わりましたと報告をしたら「白石加代子は超えられましたか?」とか言うので「はい」と言ったら「フン」と口の端で艶に笑われた。
卒業後もなぜか個人的にお会いしていろんな話をする機会があったが、
なぜそんな機会があったのかわからないし覚えていない。
このひとの話で知ったのが、近松の虚実皮膜論なんだ。
「芸といふものは実と虚との皮膜の間にあるもの也」
劇場や芝居小屋や会場で、いつも、思い出す。
観るが深まるにつれ、考えさせられるようになった、なっている。
ご縁あってとある大学で「学生のゼミで旅芝居の話を」と依頼された際も、
まず、この考え方というか見方を話した。
という話を突然したくなったのは、
先日読み終えた松井今朝子による1冊『一場の夢と消え』に痺れたから。
痺れたはおかしい。
劇薬のような強さはない。
あわあわと、ゆらゆらと、
糸でひっぱられあやつられるような静かな力で
読み進められ読み終えた近松の生きて書いたさまに「ほぉっ」となった。
実を取り入れ虚をつくる。
つくった虚が実となる。両があいまいになってゆく。
あいまいというか境目というかあいまいになってゆくゆらゆらと、
ほんとうとうそがわからない、わからなくなってゆく、
ぜんぶほんとうで、ぜんぶうそかもしれない、リアル。
尊敬する芸人というか、
芸の原点のようなことを仕事にされ生きておられる父娘と
お酒をご一緒したときに娘さんが言った言葉も思い出した。
この言葉はなぜかどうしていつもずっと頭にある。
ええ塩梅でふらふらふわふわ歩いている父を見て笑って言っておられた。
「お父ちゃんは夢とうつつの合間に生きてるから」
このひとも普段から常に真顔というか
皆が笑っていてもどこか遠いところを見ているような顔をしている。
化粧顔のせいかもしれないが。
日本を代表するその道のトップであり
何をしても仕事をしていてもオヤジギャグを言っていても色気が漂っている。ゆらゆらしながらシャンとしてる。シャンと芯が通っているのにゆらゆらしている。
わたしたちは皆夢とうつつの合間を生きているのかもしれない。
あわあわと。泣いたり笑ろたり。ゆらゆらと。
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松井今朝子は仲蔵とか吉原とか皆お好きかと思います、勿論、わたしも。
それに加えて、これもとても好き。おすすめ。
*超過去記事
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構成作家/ライター/エッセイスト、
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