東京名物百人一首(20) 能楽・梅若実/鰹節切手・にんべん/粟餅の曲搗き・本郷澤屋/鰻屋・神田川
【元歌】
わたの原 漕ぎ出でて見れば ひさかたの
雲居にまがふ 沖つ白波
※ 「古儀」は、昔の儀式のこと。
※ 「仕手脇」は、能のシテとワキ。シテは能の主役、ワキはシテの相手役。
※ 「梅若」は、 梅若実。明治時代に能楽再興の基礎を築いた明治三名人のひとり。
挿絵に描かれているのは、「翁」の能面です。
幕末から明治維新にかけて、幕府の式楽であった能楽は著しく衰退しました。世禄を失って生活に困窮した能役者は、その多くが廃業・転業を余儀なくされ、梅若は当時の様子を次のように回顧しています。
明治十年(1877年)招魂祭で「御用」の肩書を受けた梅若は、翌年「宮内省御用」を拝命、明治十三年(1880年)岩倉具視や華族の支援を得て芝公園内に能楽堂を設立します。
この芝能楽堂が再興の礎となり、能楽は明治の一大ブームになるほどの発展を見せました。尚、芝能楽堂は明治三十六年(1903)年に靖国神社に移築されて、現在に至っています。
参考:『日本社会事彙 下巻 2版(能楽の復古)』『東京案内 上(能楽)』『家庭の模範:名流百家(能楽)』『東京名物志 改定増補(能楽堂)』『大日本人名辞書 増訂6版(梅若實)』『日本社会年鑑(能楽界)』『能楽写真:附・謡曲独習口伝書 第1号(梅若實の鷺)』(国立国会図書館デジタルコレクション)靖国神社Webサイト「能楽堂」
【元歌】
瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の
われても末に 逢はむとぞ思ふ
※ 「背と腹も」は、背は背節(背側の身で作られた鰹節)、腹は腹節(腹側の身で作られた鰹節)のこと。
※ 「切手」は、切符手形の略。今でいう商品券にあたり、鰹節のほかに菓子、呉服、砂糖、酒類など様々な切手がありました。
挿絵には、表書きに「鰹節」と書いた熨斗袋と、鰹節問屋「にんべん」のしおりが描かれています。
江戸時代、商品券が初めて登場するのは、寛政五年(1793)の大坂、高麗橋の菓子商「虎屋」が発行した饅頭切手が初見とされています。江戸では、天保年間に鰹節問屋「にんべん」の六代目髙津佐兵衛が発行した「イの切手」が最初であるそうです。
「イの切手」は、江戸時代には銀製の薄板(正味二匁の銀で価値を担保)だったのが、幕末から明治時代にかけては和紙に墨書き、大正時代以降は印刷物へと形を変えました。
参考:『日本現今人名辞典(高津伊兵衛)』『道中記:附・東京四日廻』『東京百事便(高津伊兵衛)』『東京名物志 改定増補』『東京勧業博覧会案内』『類語大辞典:国民必携(切手)』『最新商業辞典(切手)』『東京府改正地券所有明細録』(国立国会図書館デジタルコレクション)にんべんWebサイト「にんべんの歴史」国税庁Webサイト「明治2年の商品券」
【元歌】
淡路島 通ふ千鳥の 鳴く声に
幾夜寝覚めぬ 須磨の関守
※ 「曲搗」は、曲芸をしながら餅をつくこと。粟餅の曲搗。
※ 「澤屋」は、本郷二丁目にあった粟餅屋。
挿絵には、粟餅本店「澤屋」のしおりが描かれています。
本郷二丁目の澤屋について詳しいことは分からないのですが、替え歌の内容からすると曲搗で有名だったと思われます。そのことを手がかりに調べてみると、大倉喜八郎(大倉財閥初代)が還暦銀婚祝賀会の催しに「本郷の曲搗」を呼んでいます。これが澤屋ではないかと思います。
当時、人気の出し物だったのでしょうね。
参考:『千山万水(葵坂の大邸)』『川柳江戸名物(粟餅の曲搗)』『江戸府内絵本風俗往来(粟餅の曲搗)』『大日本国語辞典 第1巻(曲搗)』(国立国会図書館デジタルコレクション)
【元歌】
秋風に たなびく雲の 絶え間より
漏れ出づる月の 影のさやけさ
挿絵に描かれているのは、鰻の蒲焼き屋「神田川」の印です。
神田川は、文久二年(1805年)創業の老舗の鰻屋で、初代は神田茂七。栗原信充が描いた肖像画が残っていて、その表情から江戸っ子らしい切符の良さと卓抜した才能をもつ人物であったことが窺えます。
嘉永五年(1852年)に出版された番付表『江戸前大蒲焼』には西の前頭として掲載され、また明治十二年(1879年)の番付表にも掲載が見えます。
明治時代に入ってからも東京屈指の名店として評判はかわらず、現在も銀座で営業をされています。(Webサイト「神田川|うなぎ・割烹」)
参考:『懐中東京案内2編』『東京買物独案内:商人名家』『各種専門五大老舗案内:一名・東京御買物食通案内』(国立国会図書館デジタルコレクション)『江戸前大蒲焼』(東京都立図書館TOKYOアーカイブ)Wikipedia「明神下 神田川本店」
筆者注 ●は解読できなかった文字を意味しています。
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