だって、そこのシャドー。
15年前くらい、まちづくり(当時は「地域づくり」と言われることが多かった気がする)のトークセッションに出させてもらったことがある。登壇者は、べらぼうにメジャーな財団の会長をはじめ、私以外は男性。私は、偏愛した田舎町を紹介する、無垢な想いの詰まった一冊の冊子をつくっただけで、登壇経験やまちづくりにまつわる知見は一切なかった。実績なんて、本当、冊子一冊。
想像するに、企画側として、男女比のバランスを取る必要があって、私があてがわれたんだろうなと思う。その会の終わりに、私に駆け寄って取材をしてくれた新聞記者の女性も、唯一の女性であった私への共感や応援があったと思う。このように無謀な登壇でも、結果的に私はそれを契機に人と繋がりを拡げたいい経験だった。
今、仕事として企画をする側になり、男女比のバランスは常に課題になる。それなりに「実績」から選ぶから、アサインの根拠となりうる、実績が綴られたインタビュー記事を見つけなくちゃいけない。とりわけトークセッションなどでは、ある程度、俯瞰して論理的に話せるとかも必要になってくる。個人的経験を話してもらい「すごいですねー」に留めず、参加者のために一般化したり、仕組みを学べるようにしなくちゃいけない(という前提が横たわっている気がしている)。そのような条件で壇上まで引き上げようとすると、どうしても、男性が多い。女性が、少ない。
自分自身が子を産み、育む経験を経て思うのは、その渦中は、物事をロジカルに考えられないし、向かい合うのはひたすら、終わりなき「社会」からのシャドーワークタイム。私の世界は目の前だ。一般化や仕組み化する余裕なんぞないわと。そんな修羅と共に「仕事」の実績を重ね続けれるとしたら、猛者。でも、どっか、どうしても無理してる。整えては瞬時に崩れる日常の整頓、目の前の小さな人を生かすための食事づくり。だから本能的に、セーフティネットを編むべく、誰か知らないどこかの遠くの有名人より、手を取り合える顔の見える関係性を築いていく。
ただ一冊の拙い偏愛冊子だけで、人前で話す機会を与えてくれたあの会は、優しい空気の記憶として保存できている。私にとってのひとつのスタート地点だったかもしれない。そう考えると、未経験でも、ロジカルでなくとも、パッションを受け入れる優しい場を用意できたら、登壇者男ばかり!みたいなことを減らしていけるのかもしれない。
私は私として、顔の見える関係性から知り得る、生温かい情報を「実績」として送り出すことがしたい。インタビュー記事じゃなくて、私が触れて知るから。