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今、伊丹映画を観るなら、この6本+1

長編劇映画第1作『お葬式』から、遺作の『マルタイの女』まで、伊丹十三は全10本の映画を残した。2023年から伊丹映画を観始める人に、オススメする6本+1本。



『お葬式』(1984年)

脚本・監督/伊丹十三
出演/山崎努 宮本信子 菅井きん 大滝秀治


 伊丹の妻・宮本信子の実父が亡くなった際の葬儀の光景を、これは映画そのものだと閃いた伊丹がその経験を忠実に再現した長編監督デビュー作。主人公夫婦が俳優という設定もそのため。ついでに言えば、劇中の山崎努と宮本が俳優夫婦という設定なのも、遠近法を利用して宮本が巨大化するCMを撮っているのも、全て伊丹と宮本の実話がベースだからである。舞台となる湯河原の邸宅も伊丹の自宅とあって、極めて個人的な体験を個人映画のように撮っている。それが予想外に大ヒットし、特異なテーマを鮮やかな切り口で描く伊丹映画を誕生させることになった。
 お葬式という儀式を突然取り仕切らなければならなくなった戸惑いをドラマチックに描くのではなく、これまでの映画では気にも留められなかった通夜用の寿司の手配、病院への支払い、棺桶の値段、お布施の額など細かなディテールを丹念に描くことで観客の共感を呼んだ。死から葬儀を終えるまでの3日間の物語に凝縮した作劇も素晴らしい。
 冒頭に映される山崎の義父が買ってきたアボカド、鰻、ハムを捉えたショットの艶めかしさ、車が並走する中での息づまるサンドウィッチの受け渡し、告別式の後に出す弁当の吟味など、食が映画を躍動させ、食感が映画に豊かな広がりをもたらすのも忘れがたい。
 宮本の母親役は、高峰秀子にオファーするも断られたことから菅井きんが演じたが、これが絶品。笠智衆を筆頭に往年の小津映画の俳優たちまでが次々と顔を出す凝ったキャスティングも見所。         


『タンポポ』(1985年)

脚本・監督/伊丹十三
出演/山崎努 宮本信子 渡辺謙

 俳優・エッセイスト・レポーターなど多彩な顔を持っていた伊丹十三が、全監督作品中、最も趣味に走り、やりたいことだけを凝縮したのが、「食」をテーマにした『タンポポ』。
 亡くなった夫の跡を継いで、一人息子を育てながらラーメン屋を営むタンポポ(宮本信子)。店は陰気でラーメンも不味い。通りすがりにフラリと入ってきたトラック運転手のゴロー(山崎努)と、ガン(渡辺謙)の助けを受け、本物のラーメン屋になるためにタンポポはラーメン作りの基礎から学ぶことになる。
 『用心棒』はマカロニ・ウエスタン『荒野の用心棒』へ翻案されたが、伊丹は逆に、西部劇『シェーン』をラーメン・ウエスタンに換骨奪胎。この奇想に大ウケしたのは日本よりも、むしろ海外だった。
 エッセイスト時代の伊丹は、食へのウンチクを数多く執筆しており、レポーターを務めた「遠くへ行きたい」でも、最高の食材を使った親子丼を作る旅を企画したことがある。
 メインの物語と並走して、食をめぐる10本の挿話が描かれる。これらは伊丹エッセイの映画化とも言うべき人間観察喜劇集になっており、スパゲッティの正しい食べ方、危篤の母が子供たちを前に最後の気力で作ったチャーハン等々、伊丹の独創が存分に発揮される。抱腹絶倒なのは、ヨボヨボの大滝秀治が餅を喉に詰まらせるエピソード。山崎が大滝をパイルドライバー状に逆さにすると、宮本が掃除機を喉に突っ込んで救出するという、並の芸人でもやらない体を張った荒技に挑んでいる。  
 これ1本作限りの出演者が多いのも本作の特徴。狂言回しのタキシードの男は、若手時代の役所広司。他にも渡辺謙、安岡力也、加藤嘉、藤田敏八、意外なところではノッポさん(高見映)など、以降の伊丹映画でも見たかった顔ぶればかり。
 エンドロールには母乳を無心に飲み続ける赤子が映し出されるが、これぞ食の原点である。


『あげまん』(1990年)

脚本・監督/伊丹十三
出演/宮本信子 津川雅彦 大滝秀治 


 マルサを流行語に仕立てた伊丹が続いて用意した隠語は、男にツキをもたらす女=あげまん。放送禁止用語ギリギリの言葉を拾い出して流通させてしまうコピーライター的センスが発揮された1本。
 『タンポポ』と『マルサの女』でハリウッドに認知された伊丹が本格的なアメリカ進出に挑むべく日本ならではの〈ゲイシャ・ストーリー〉として企画されたものの、誰も発想しなかった斬新なアイデア=伊丹映画という従来の枠からは外れた作品となり、往年の日本映画が得意とした色街ものとの差異をタイトル以外に提示できなかったきらいがある。しかし、バブル全盛期の狂乱を背景に、政治とカネを毒々しく描く手腕は健在。


『ミンボーの女』(1992年)

脚本・監督/伊丹十三
出演/宮本信子 大地康雄 村田雄浩


 日本映画で最もアメリカ映画のテンポを受け継いでいたのが伊丹映画だった。伊丹十三のアメリカ映画志向が最も巧みに作劇と結びついた幸福な1本が、ヤクザによる民事介入暴力がテーマの『ミンボーの女』。
 前半はヤクザの脅迫に応じるままのホテルを、後半は弁護士の助言を得てヤクザと毅然と戦う姿が描かれる。伊丹はアメリカ映画の典型である主人公ふたりがコンビを組んで成長するバディ映画を本作と次回作の『大病人』で導入しており、宮本信子は彼らを指導し、見守る役目となり、従来の伊丹映画からの脱却が見て取れる。
 公開直後に伊丹が暴漢に襲撃され重傷を負う事件が発生し、逆に話題が広がって大ヒットするという皮肉な一面でも記憶される。事件後、続編の可能性を問われた伊丹の答えは、「もう、あの人たちに愛着が持てなくなった」だった。


『大病人』(1993年)

脚本・監督/伊丹十三
出演/三國連太郎 津川雅彦 宮本信子


 当初は医療の闇を描く社会派映画「大病院」として企画が発表されていたが、前作『ミンボーの女』公開直後に起きた伊丹への襲撃事件を経て内容が変更。自身の死生観を色濃く反映させた終末治療がテーマとなった。タイトルはかつての自身のエッセイ題から流用。『ミンボーの女』と同じく、バディ映画として構成されており、一連の宮本信子主演作からの転換を図った時期の作品。
 しかし、前作あたりから顕著になり始めたドアップ、劇画的構図の多用と共に描写のクドさが作品のテーマとは相容れず、これまで繰り返し描かれたガンと死の物語だけに、伊丹映画特有の目新しさには欠けた面もあった。三國連太郎が空を飛んで霊界を散歩する伊丹映画最大規模のVFXは、山崎貴が中心となって白組が担当。それだけに臨死体験シーンは『大霊界』を超える迫力になっている。


『静かな生活』(1995年)

原作/大江健三郎 脚本・監督/伊丹十三
出演/佐伯日菜子 渡部篤郎 山﨑努


 伊丹映画全作の中で唯一原作を持つ『静かな生活』は、前年ノーベル文学賞を受賞した伊丹の義兄・大江健三郎が実子の光をモデルにした同名小説を映画化。
 『マルサの女』以降はオファーを断ってきた山崎努が8年ぶりに伊丹映画への復帰を果たし、大江をモデルとした作家を演じる。宮本信子はこれまでで最も役が小さく、その意味でも伊丹映画最大の異色作。
 しかし、興行的には伊丹映画としてはダントツの不入りとなり、次回作『スーパーの女』から再び過剰なまでのサービス精神に満ちた宮本主演のエンターテインメント路線へと舵を戻すことになる。
 劇中劇で描かれる田舎の夜道で青年が思いを寄せる女性に暴行するシーンと、その後の寓話的な描写は、伊丹映画にあったかもしれない別の可能性を感じさせる。


『ゴムデッポウ』(1962年)

監督/伊丹一三 脚本/伊丹一三・川喜多和子
出演/市村明
伊丹一三

 幻の伊丹映画とも言うべき『ゴムデッポウ』は、伊丹一三名義で活動していた時期の初監督短篇。1963年にATG系劇場で公開された後、翌年草月ホールで『砂の女』の併映作として上映されて以降は数えるほどしか上映されていない。
 『北京の55日』出演時のギャラで購入した16ミリ用のカメラで撮影した日常スケッチだが、『お葬式』『タンポポ』の原型を思わせる伊丹版ヌーヴェルヴァーグとも言うべき軽やかな魅力に満ちている。後の伊丹は、自作に顔を出すことはなかったが、本作では二番手の役で出演。主人公を演じるのは伊丹の実際の友人。
 ゴムデッポウ遊びに興じる様子に始まり、新宿の街頭、皇居前広場を全学連が安保粉砕を叫びながら横断していくシーンなど、撮影された1962年の空気感が漂ってくる。電車から窓外に見える文字を全て声に出して読んでみたり、伊丹とヒロインがベッドでキスをめぐってディスカッションを始めるなど、伊丹のエッセイに書かれていたエピソードがそのまま映画になったような感があり、伊丹エッセイの映画化という視点で観ることもできる。
 また、パスタを食べながら回虫の話を持ちだしたり、食事中に牡蠣と糞尿の話を始めるシーンには、伊丹映画にあった悪趣味ぶりを、ここでも見いだせる。
 高等遊民たちの楽天的な日常を描きながら、終盤では主人公が将来の不安を口にして映画に冷ややかな現実の風が吹き込んでくる。伊丹が本作で目指したという「若者たちの倦怠、ささやかな生き甲斐、萎縮した夢、かなり上質のヒューモア、妄想」(公開時のチラシより)が巧みに描かれた秀作。




初出『映画秘宝 2012年1月号』に加筆修正

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映画監督伊丹十三とは何者だったのか? 伊丹十三と伊丹映画を、13本の記事と4本のコラムをもとに再発見する特集です。

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