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福岡佐賀探訪後 街道をゆく肥前の諸街道 蒙古塚・唐津読了

今回は我が肥前の探訪記です😊住み始めてから1年半。すっかり肥前ファンなんですがまだまだ知らないことはいっぱいです。なので、今回も自分の行ったところを整理しながら、『街道をゆく』〜肥前の諸街道〜蒙古塚・唐津(平戸はまたの機会で😊)を読んで知識を深められればと思っています。トップの写真は唐津城です。

1 元寇の舞台 肥前〜糸島〜
 番外編〜鷹島〜         2 虹の松原
3 松浦党も食べたかな?呼子のイカ
4 名護屋城


1元寇の舞台 肥前〜糸島〜

司馬遼太郎さんはまず糸島の蒙古塚を目指してらっしゃいます。そして襲来してきた元寇に思いを馳せている。
私も糸島行きました。でも現在の糸島、サーファーたちの集うインスタ映えスポットとして大変オシャレに発展しています。テレビ番組でもよく取り上げられています。
私が行ったのは糸島のトトロの森、二見ヶ浦の夫婦岩(海の中に白い鳥居があって大変きれいです。)、ヤシの木ブランコ。インスタはしてないんですが老後の楽しみに子ども&絶景写真を撮ることを生きがいにしているので、蒙古襲来に思いを馳せることはなくインスタ映えスポットばかり巡ってました💦
司馬遼太郎さんの目指した蒙古塚。本の中で九州に通暁する方たちもほとんどピンとこない。たまたま会った文化財の専門家の先生もそれが元軍の死者の塚であるかどうか疑ってらっしゃる。
だからもちろん私も知らず、本を読みながらグーグルマップで探してみました。
糸島半島の東の端っこを見てみたら、本当に山?森?しかなくて「あれ?なくなっちゃったのかな?」と思ったけどもう少し中側にありました。学校の中にあるのか、専門家の先生も分からないくらいだから現在もあまり知られてないのだとは思います😌
だから蒙古塚に関しては司馬遼太郎さんは想像力を発揮してらっしゃいます。モンゴル人に強制されてやってきた人々の骨が埋まっているんだろうかと。
今回、街道をゆくを読んで北九州の海岸線に元軍の大艦隊が押しよせたことを認識しました。そうか教科書で読んだ場所はあそこだったのか。きれいな景色を満喫させていただきましたが、次行くときは海岸線に元軍の大艦隊を思い浮かべ、必死に国を守った鎌倉武士、住民たちの思いを想像してみなくてはなりません。

番外編 〜鷹島〜

全然、元寇について深まってないじゃないかと言われそうなので、司馬遼太郎さんは行かれてないようですが鷹島のことを…。
鷹島。こちらに住んでなければ知らなかっただろう。鷹島モンゴル村という広大な公園があり、公園の中にはゲルもあります。元寇の最後の激戦地だそうです。文永の役では元軍が上陸し住民を虐殺していきました。弘安の役では元軍は台風の被害にあい軍議で撤退を決めると、鷹島に10万の兵を取り残し、主将は船で逃げてしまいます。そこに日本軍が襲来し、2〜3万の捕虜をとり元軍を壊滅させました。鷹島には、この鷹島掃蕩戦の激しさを物語るものとして、首除(くびのき)、首崎、血崎、血浦、刀の元、胴代、死浦、地獄谷、遠矢の原、前生死岩、後生死岩、供養の元、伊野利(祈り)の浜などの地名が残っているそうです
。遺物がある南岸一帯は埋蔵文化財包蔵地として周知されていて、遺物の一部として松浦市立鷹島歴史民俗資料館や鷹島埋蔵文化財センターで見ることができるそうです。

大変、勉強になり貴重なものもいっぱい見れると思います。でも私はお昼ごはんに食べたとらふぐセットが忘れられない💦ふぐ刺し、ふぐの唐揚げ、ふぐ雑炊、小鉢2品、吸物、デザートで2200円。感激です😂

とらふぐセット(一部です)

鷹ら島という道の駅でマグロの切り落としが1000円でたっぷり入って売ってたので帰りに買って、漬けにして食べました。
びっくりするくらい美味しかった。鷹島はまぐろの養殖をしてるそうです。
家族もあのフグとマグロには感激していたのでま
た行きたいなと話してます。次は埋蔵センターも是非寄りたいです😆

2 虹の松原

引っ越してきた時、何があるんだろうと地図をとりあえず見てました。唐津の「虹の松原」。地名に「虹の」なんてつくなんてどんな所なんだろうと思ってました。
行ってみると中を車で走ってる時はただただ広大な松原です😂

もとは「二里の松原」と呼ばれたらしい。秀吉の時代に大名にとりたてられた尾張人寺沢広高がこの唐津城主となって、城を築き防風林として松原をつくった。

街道をゆく 肥前の諸街道

二里の松原がいつ頃からか「虹の松原」となったそうです。唐津は藩主がよくかわり、町人や富農層が武家文化より唐津文化を育んで、こういうしゃれた言い方ができたのではないかと書かれています。
同じ佐賀でも明治維新で有名な佐賀藩は徹底した学校文化の伝統があり 

もし旧佐賀藩領に「二里の松原」があれば、
ー距離を正確に言い表して、じつに妥当な名称ではないか。
ということになって、虹の松原などという発想はたれも持たなかったにちがいない。

街道をゆく 肥前の諸街道

佐賀に来て、色々佐賀藩の本を読ませてもらった者にとっては「確かに」と少しウケてしまいました。財政難から最終的に薩長土肥の肥前にまで上り詰めた佐賀藩。とっても生真面目な印象です。佐賀藩のこともまたいつか書きたい😆
話がそれてしまいましたが虹の松原、沖から夕陽の時間、松原に虹がかかったようにも見えるとも書かれてますが

なによりもすぐれているのは、名称といっていい。虹という、多少甘ったるい言葉が、これほどありありと生きている例を他に知らないのである。

街道をゆく 肥前の諸街道

本当に人を引き寄せる名称だと思います。沖から見ると美しいのかもしれませんがなかなか難しいので鏡山の上から見るのがおすすめです。とっても深くて長いことが上空からよく分かります。

3 松浦党も食べた?呼子のイカ

司馬遼太郎さんはその後、東松浦半島の呼子に向いますが九州の北部で博物館等にいくとこの松浦という名前は本当によく見かけます。『魏志』に末羅国(まつらこく)、『古事記』に末羅(まつら)。『和名抄』に万豆良(まづら)。そして松浦。

この古代国家は〜中略〜せいぜい小集団の連合体が存在したにすぎないと思われる。

街道をゆく〜肥前の諸街道〜

勝手に海賊のイメージを持っていましたが、その一主流は江戸期大名として残る平戸松浦氏もあり嵯峨源氏だそうです。奥州の安倍氏の末裔であるとする派もあったり、時には分裂し団結して歴史を作ってきた族党だそうです。
防人の逃亡者が土着して土豪化したのではないかとも言われ、源平の壇ノ浦の海戦、元寇、倭寇とずっと出現している松浦族。本では海賊より貿易が主だったのではとあります。
なるほどこんなに長く歴史に登場してきた強みは貿易なんですね。海賊で古代から続くなんて考えにくい。
ただ倭寇に関しては貿易より海賊だったようです。これを鎮めた人に呼子殿という呼子港付近を仕切っていた松浦党の一族長がいたらしいとのこと。
北九州に来て博物館に行くと、なんか習った歴史と違う気がする。いや、防人も壇ノ浦の合戦も元寇も倭寇も確かに習ってるんだけど、北九州の人々は古代から海を渡ることが頻繁で本州で色々都が変遷していっても独自の文化を作っていた気がします。

さて、呼子といったらイカは絶対に外せません。
お刺身は歯ごたえがたまらず、天ぷらは柔らかい。松浦党たちもこのイカを食していたのか思いを馳せて、また食べに行きたいっ!

イカの刺し身

4 名護屋城

なごやと聞いてすっかりこっちの名護屋を思いうかべるようになってきました😂豊臣秀吉の文禄・慶長の役の出兵基地です。司馬遼太郎さんは堀久太郎陣跡という看板から堀久太郎について書いてらっしゃいます。私は8月に軽い気持ちで行ってみたのですが、広い。広すぎて真夏に何も考えず行くところではない。『半径3キロメートルの範囲に広がる大名の陣跡郡は日本の歴史上類を見ない、広域かつ得意な遺跡群てす。』とガイドブックに書いてありました。日本の歴史上類を見ないぐらい広い!真夏に子連れで行ってはいけない!

真夏しか行けない方。すぐ隣に立派な名護屋城博物館がありますのでぜひそちらに行ってください。文禄・慶長の役のことはもちろん学べるし、それ以前以後の朝鮮と日本(九州)との交易や関係が順を追って展示されてます。やっぱり北九州の文化って朝鮮との交易ありきなんだと実感します。

以上、私の行った肥前の諸街道と、司馬遼太郎さんが『街道をゆく』で回った肥前の諸街道をおこがましく重ね合わせてみました。歴史より食べ物かよとも言われそうですが、行ったところを司馬遼太郎さんが書いてくれていると嬉しくて😊
住んでるうちに九州は読破して、見れるところは見ていきたいです😆



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