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日記・無かったことになっている

6月16日(日)

父の日。特に変わったことのない日だった(え?父の日なのに???)




6月17日(月)

シチューをつくろうと思い、山本ゆりさんのレシピ本を開く。玉ねぎはごく薄切りにしてと書かれているんだけど、その玉ねぎの薄切り具合が↓

できる限り薄く。あなたの印象ぐらい。(突然の無差別な悪口)

『syunkonカフェごはん レンジでもっと! 絶品レシピ』より引用

と書いてあるので、毎回ここで笑ってしまう。

「あなたの印象ぐらいの薄さ」なので、うちでは玉ねぎが極薄。玉ねぎ入ってた??????と思うぐらい薄い。なので夫に、

「次からでいいから、シチューに玉ねぎがほしい」
と言われた。

しまった。私の印象と同じように玉ねぎを極薄にしたため、玉ねぎの存在そのものが無かったことになっている。

「玉ねぎ、入ってるよ」
と言ったら、

「え?いつから???」
と言われた。

ああ、これは・・・

友だちと一緒に遊んだ次の日、友だちに
「昨日は楽しかったね」
と言ったら、
「え?昨日一緒に遊んだっけ??」
と、言われるのと似ている。

存在感がなさすぎて、一緒にいたのに一緒にいたことにカウントされていないやつね。あれは悲しいよね。

で、何の話だっけ?
過去の悲しい記憶を思い出す大会をしてたんだっけ??





6月18日(火)

昨日、夫に「朝食べる用のバナナが無くなったので、買ってきてほしい」と頼まれたのでバナナを買っておいた。なのに夫は今朝、バナナを食べずに出勤した。ふうん。




6月19日(水)

私は今日もまた、バナナを買ってしまいました。どうしてですか。バナナはまだあります。この季節のバナナは危険です。すぐに腐ります。

ええ、無意識でした。買い物カゴに無意識にバナナを入れていたんです。夫が毎朝バナナを食べるので、バナナは切らしてはいけないと思ったのかもしれません。それか、もしかすると、夫のことをゴリラだと思っているのかもしれません(「バナナ=ゴリラ」連想ゲームか)。




6月20日(木)

岸本佐知子さんの『わからない』を読む。岸本さんの文章が、四半世紀分も集結している本。四半世紀は25年。いまから25年前というと、ちょうど2000年あたりってことか・・・。え? 2000年って最近のような気がするんだけど、もう四半世紀に近いの???

2000年ってどんな年だったっけ? と思って検索したら、流行語大賞が「おっはー」だった。いまでも普通に使ってるよ。


いやいや、四半世紀の話じゃなくて。

『わからない』の中で、岸本さんが絶賛している、リディア・デイヴィスの作品をとにかく読んでみたくなった。

リディア・デイヴィスの作品は、「小説はかくあるべし」という固定観念をきれいに破壊してくれた、と岸本さんは本に書かれていた。3行で終わる話があったり、30ページ近い懐古文があったり。枠にとらわれていないという、リディア・デイヴィスの文章をぜひとも読んでみたい!!


 ずっとこういう小説を待っていた、と私は走りながら思った。自分が子供のころからずっと小説に、いや本というものに不満だったことに、あらためて気がついた。本なんて字でできているんだから何をやったっていいはずなのに、どの本もみんなお行儀よく”お約束”に従っている。始めがあって真ん中があって終わりがある。主人公がいて、あらすじがあって、何らかのメッセージが作者から伝えられる。生まれたときからずっと世の中の不文律の”お約束”が読めず、集団生活で煮え湯を飲まされつづけていた私に、本は慰めを与えてくれるどころか、逆にますます絶望を味わわせた。でもこの本は、この作家はちがう。

『わからない』より引用


岸本さんが「この本を訳さないと死ぬ」とまで思った『ほとんど記憶のない女』や、爆笑しながら訳したという『サミュエル・ジョンソンが怒っている』など、とにかく片っぱしからリディア・デイヴィスの作品を読みたい。読む。絶対に読む!!!!!



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