何にもない日なんてないのに、別段書くことじゃないよねと判断してしまう
最近、古賀及子さんの『ちょっと踊ったりすぐにかけだす』をちょこちょこ毎晩読んでいて、これがとても良くて、日記の良さみたいなものを改めて考えていた。
そして結局、日記が書きたいなという結論が出てしまって、ちょっと唸った。
以前私は「読書日記」と称した日記をこのnoteに書いていて、けれど日記って本当に難しくて途方に暮れたことを思い出す。だから唸った。
日記を書きたい気持ちはあっても、書けなくなる日が来ることを知っているから唸る。
でももしかしたら、書けなくなる日が来なくなる方法というのも、この世には存在するのかもしれない。
そう思ったのは、コチラのnoteを読んだから👇
記事の中で、
という話を古賀さんがされていて、これだ!!と思った。
たぶん日記につまずく理由の一つに、何にもなかった日は、日記を書くことができないというのがあると思う。
何にもない日なんてないんだけど、別段書くことじゃないよね、と自分が判断してしまう日。
それが続くと、日記を書くこと自体がしんどくなる。
けれど古賀さんのように、ピックアップした出来事を精密に考えて日記にすれば、まだいけるんちゃうか?という気持ちも生まれる。
ただそのピックアップが生まれなかったら?と思うと、やはり日記には二の足を踏んでしまうのだけど。
たとえ日記ではなくても、ピックアップしたテーマをどのように表現していくのかは、noteを書いている身としては考えさせられることだった。
表現次第で面白い文章が生まれたり、まったく生まれなかったりするんだろうし、面白さというのは人によって違うし。うーん。
なんてことを考えていたら、頭がこんがらがってプスプスと音を立て始めたのでこの話はおしまい。
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そんな最近の読書は『書きたい生活』。
著者である僕のマリさんの前作『常識のない喫茶店』は読んだことがない。
この『書きたい生活』は『常識のない喫茶店』の続編にあたるらしいんだけど、迷うことなく買った。
なぜかといえば、『書きたい生活』には僕のマリさんの日記があったから。
日記というだけで深く考えることなく購入してしまう自分。
なにかにとりつかれているかのように、日記を求める自分。どうした。
『書きたい生活』は、『常識のない喫茶店』が発売されたあとの、僕のマリさんの日々が綴られている。
エッセイの中に日記がまざっているような本で、これがとても楽しくて、一気に読み進めていたんだけど、半分以上まで読んだところで、こんなに一気に読んだらもったいない!と気づいて、現在はペースを落としながら読み進めている。
読書がガーッと進むときがたまにあるんだけど、そのタイミングと読んでいる本がマッチングすると、とてつもない幸福感が押し寄せてくることがあって、いまがまさにそれだった。
初めての商業出版で本を出したこと、その翌月には喫茶店をやめたこと、引っ越してパートナーと暮らすことなどが描かれているのだけど、僕のマリさんの周りにいる人の温かさなどがとても心地よくて、僕のマリさんって愛されている人なんだなぁと、存じ上げない人のことを優しい気持ちで見つめていた。
僕のマリさんのように、日々の出来事をごくごくと飲み干せるような文章で表現できたらと思わずにはいられない。
それには相当な訓練が必要だろうなと思う。
そして何よりも大事なのは、日々のほんの些細な出来事に気づくこと。
気づいたことをきちんと言葉にしていくこと。
古賀及子さんにしても、僕のマリさんにしても、日々を言葉にすることがとてもうまい。
何気なく過ごすのはラクなんだけど、こうして文章を書いて表現したい気持ちがあるのなら、ラクを選んだらダメかもしれないなと思ったりした。
日々の些細なことに気づける人に私はなりたい。