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読書に没頭できる幸せ

ここのところ、自己啓発本やビジネス書などを読んでいない。学ばなければ人間としての成長が無くなるんじゃないか。そんな思いで必死に読み続けてきたこの4年。長かったのか短かったのか、その年月がどれほどのものだったのか私にはわからない。ただ言えるのは、いまの自分がわりと平穏な精神を保っているということだった。

もっと上を目指さなければ!
もっと良い自分でいるために!
もっともっと情報を!!

そんな気持ちで本を読みあさっていたけれど、そのハングリー精神のようなものに私はどうやらやられてしまっていたようで、心が安定するときが無かったように思う。

常に焦りを抱えていて、何かしら手にしたような錯覚を抱きながら、でも何も手に出来ない自分に苛立ち、そして自分を責めて責めて追い詰めていく。そんな日々を過ごしていた。

これが精神衛生上、とても最悪であったことは考えるまでもないことなのに、当事者であった自分はまったく気づきもせず、ただ自分のがんばりが足りなかったのだと、自分を責めて責めて責めまくった。

当たり前だけど本が悪いわけじゃない。どんな読み方をするかによって、良書にも悪書にもなるわけで。でもそれは読み手の問題だから、本の内容がどうこうという話ではないのだ。それはわかっていた。ただ自分への対処法を間違えていただけなんだ。

自己啓発本やビジネス書は、タイトルを見るとつい手に取りたくなってしまうものが多いし、自分の悩みを解決する何かがあるような錯覚を起こしてしまう。本を読んで行動する自分次第ですべてが変わるのであり、本の内容がものごとを左右するのではないと知っていても、私はその錯覚の中でずっと生きてきたように思う。錯覚の中で生きることがラクだったから。深く考えずにただ文章を読んで、共感したり納得したりしていれば、物事が自分の思い通りに運んでくれると思い込んでいれば、それで幸せだったのだろう。

でも今こうして小説しか読まない生活をしていると、ハングリー精神をなくし、焦りも消えて、不安定だった心はいつの間にか安定していて、落ち着いた状態を取り戻した自分は集中して本が読めるようにもなっている。それがとても幸せだと気づいてしまった。

今までの自分が「幸せ」と思っていたものは、誰かが作り出した「幸せ」だったのかもしれない。月に何百万も稼げる人は「幸せ」であり、自分もそうならないといけないんだと思っていた。そうしなければ不幸なのだと錯覚していた。自分の幸せは自分にしかわからないというのに。

私の幸せは、読みたい本を読むこと。それだけだ。
今は『アリスが語らないことは』を読んでいる。

著者ピーター・スワンソン氏の作品がわりと好きで、今まで翻訳されているものは全部読んできたのだけど、犯人が誰なのか私は毎回あてることが出来ていない。そして今作もやはり犯人をあてることが出来なかった。犯人をあてられないということは、驚く結末だったとも言えるので、それはミステリーを読むうえで喜ぶところだと勝手に思っている。

何はともあれ、ただただ読書に没頭できていることが私には嬉しいのだった。

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