本当に要らないものになる前に
そうか、応援しているはずでも、相手にとってそれは応援ではなくて、鞭をふるわれている感覚になるんだ・・。
これは『生きのびるための「失敗」入門』を読んで気づいた話。
この本の中で、あさのあつこさんの話があった。あさのさんの長男が、医学部を受験するとき、あさのさんは息子さんの塾の送り迎えや弁当作りなどで、息子さんの受験を応援しているつもりだったらしい。
しかしそれは、息子さんからしてみたら鞭をふるわれている感覚だったらしく、受験に合格して家を出て行く日に
「おかん、俺がどれだけしんどかったか考えたことがあるか?」
と言われたらしい。
あさのさん自身は応援しているつもりで、でもそれは息子さんからしてみたら違っていて、むしろその応援と呼ばれるものに苦しさを感じていた。これ、人との関わりの中で多く見受けられるもののような気がして、私は唸ってしまった。
一方は応援しているつもりでも、それは受け手にとって迷惑なものである場合はそこそこ多いのではないか?と思った。偽善と呼ばれてしまえばそれはとても悲しいものになるけれど、良かれと思ってしていることも、相手にとっては悪以外の何者でもない場合ってあるよね、とは思う。悲しいけれど。
お互いに見ている世界が違うからこそ、起こってしまうすれ違いかもしれない。こういうすれ違いは、親子ほど多く経験するように感じるのは、親子がより多くの時間を過ごすからだろうけれど、それ以上に長く一緒にいそうではある夫婦にも、こういったすれ違いって気づかないだけでたくさんあるんだろうか?と考えてしまった。
今まさに夫が資格取得のための勉強中で、今までやってきた職種とは全く別関係のないジャンルを勉強しているためか、夫は脱毛症になってしまった。本人は脱毛に対して気にしていないけれど、やはりストレスは大きかったという自覚はあったようだ。
脱毛症になったけれど、だからといって勉強をやめるつもりは無いらしい。こういう時、周りはどうすればいいのかと悩むけれど、たぶん、当人に必要とされていないことを、勝手にしないことは大事だろうとは思う。
しかしこれが、子どもたちの場合になると話が違ってくる。子どもたちのことになると、ついつい口を出してしまうし、余計な手出しをすぐにしてしまう。子どもたちにとっても迷惑らしく、「ママうるさい」と言われる日々。
夫に対してしているように、子どもたちに対しても余計な口をはさまずに、ただ見守っているだけで良いはず。もしも当人たちが助けて欲しいならば、その時は声をかけてくるだろうという気構えでいるほうが、お互いにとって気楽な関係ではあるはず。
なのに子どもたちに対しては、黙って見守るということができない。親としての責任があるというのも理由のひとつだけど、私は根本的に、子どもたちを信用していないのだろうと気づいた。
いくら成長をしていったとしても、私の脳内にいる子どもたちはいつまでも赤ちゃんのままで、自力で何もできない状態が何歳になっても続いているのだと思う。子どもたちは一人では何にもできないのだから、助けてあげなければいけないんだとずっと思っているんだと思う。本当は違うのに。
必要なのは私の脳内のアップデートだろうな。子どもたちは成長していて、いつまでも赤ちゃんのままじゃない。すべてにおいて助けが必要な時期は終わっているんだという事実を、私は認識していかなければいけない。このアップデートには時間がかかりそうだし、もしかしたらアップデートすること自体を私は無意識に拒否しているのかもしれない。
拒否を続けていたって、子どもたちのグレードはどんどん上がっていく。気づいたときにアップデートしないと、今度はこちらがアップデートに対応できない機種になってしまう可能性だってある。もう何も受けつけない、古くて要らないものになってしまうかもしれない。それはごめんだ。
『生きのびるための「失敗」入門』を読みながら、今の私がしている子育ては「失敗」の部類に入るんだろうなと思った。気づけたのなら、やり直せるかもしれない。アップデートがんばろうっと。