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読書日記・いたわりながら生きていきたい

8月18日(金)

仕事が急遽休みになった夫と、電気屋さんへと出向く。エアコンの取り付けまで何日待つことになるだろうかとハラハラしていたら、明日には取り付けできますよ~と、あっさり言われて拍子抜け。助かった!!!エアコンに関係しているみなさんにありがとうーーーー!!!と大きな声で言いたい。

読んでいたのは『文學界』

私はこうして読書日記を書いているけれど、この日記に自分のことを書いているという感覚が薄い。まさしく自分に起きた出来事を書いているはずなのに、自分事としてとらえにくいのは何故なのか。その答えらしきものが『文學界』に書いてあった。

日記とは一種の演技だ。(中略)そもそも大半の書き手は自分にとって公にしても構わないことしか大っぴらには書かないものだ。(中略)記述というものには必然的に限界や嘘があり、どうしたって創作じみてくるということを、書き手自身よくわかっている。

柿内正午さんの『エッセイという演技』より引用

読まれても大丈夫なものを選びながら日記を書いていて、さらに日記を書こうとすることで客観的な視点が加わるから、自分事としてとらえにくくなっているのかもしれない、と思った。日記を毎日更新されている柿内さんだからこその視点が面白い。


8月19日(土)

息子がトイレを詰まらせるというアクシデントが発生。今の家に引っ越して10年になるのだけど、一度もトイレを詰まらせたことがないものだから、あの詰まりを直してくれるスッポンとするものが家にない。急いで近隣のホームセンターに買いに行った。スッポンを持っていることが恥ずかしくて、人に見られないようにスッポンを抱きしめながら歩く自分。これが自分の中でなんだかツボに入り面白くなっちゃって、ひとりでブハッと笑いそうになったのでグッとこらえる。スッポンを抱きしめながら一人で笑う中年の女性って、それだけでホラーじゃないか。トイレの詰まりはすぐに直った。良かった。


8月20日(日)

ねずみ花火が売っている。久しぶりに見たのでちょっとテンションが上がる。懐かしいという気持ちでテンションが上がっただけで、ねずみ花火は昔から苦手。どこに動くかわからないのが怖い。しかし一度くらいは子どもたちに本物を見せてみようということになり、ねずみ花火を購入。夜、ねずみ花火に火をつける夫がへっぴり腰だったので爆笑してしまった。どこに動くかわからないねずみ花火に、火をつけることが怖かった様子。自分では度胸があると思っている夫の、たま~に見せる怖がりな一面がとても面白くて大爆笑してしまった。花火はすぐに音を立てて消えた。

読んでいたのは、近藤史恵さんの『それでも旅に出るカフェ』

自分に自信がない人ほど人を見下す、というのを以前なにかの本で読んだことがある。私も自分に自信がないので、人を見下す行動を無意識にしているかもしれない!!という不安がずっとあった。

この本には、自信がある相手を前にすると、自分が見下されていると感じてしまう場合があるという話があって、おぉ!!!という驚きと発見があった。

相手の自信のあるなしを、自分が勝手に脳内変換して見下されてるかもしれないと判別しているなんて考えたこともなかった。けれど言われてみると、確かに!と思う部分はある。自信満々で偉そうな態度をしている人を見ると、見下されている気がしてしまう。相手の自信満々な態度によって、自分が見下されていると感じてしまうけれど、自信満々な人ほど自分に自信がなくて虚勢をはっているだけだとしたら、どちらも相手に脅威を感じているのかもしれない。お互いに弱さを抱えて生きているってことなのかなぁ。だとしたら、お互いに労わりながら生きていきたいよね~などと考えていた。


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