『読書セラピスト』
小説に対するハードルが自分の中で上がっているので、読み始めた『読書セラピスト』を最後まで読める自信がなかった。最近はいつだって途中で離脱していて、最後まで読み切った本となると一ヶ月に何冊あるのだろうか、と途方に暮れる。
そんな私が『読書セラピスト』を読み終えることが出来たので、一人で小躍りした。
読書セラピーを始めたヴィンチェが、クライエントにお勧めする本の数々に魅了されたり、時には「え?何そんな本があるの?でも読むのが怖い」と思ったりしながら、ヴィンチェがおこなう読書セラピーをながめていた。
正直なところ、彼の読書セラピーは成功しているのか疑問だ。怒ってしまう人、あきれているように見える人、もちろん笑顔で帰っていく人だっているけれど、それは読書セラピーのおかげなのか、私にはよく分からない。
そして「文学に救われることなどない」という言葉まで登場し、ヴィンチェはそれを分かっていて、そうか、救われることなどないのか・・と、落胆しそうになった。
ただ自分の中で、本を読んで救われたと思えたなら、それで充分なんだろうと思う。きっと世の中のすべてに「正解」を求めてしまえば、人の数だけ「正解」が生まれてややこしいだけだ。
「文学に救われることなどない」と思っている人はそれが事実だと思っていて、けれど私は救われるんじゃないか、といった漠然とした思いがあってそれもまた事実だと思う。そしてこれはどちらが正しくて間違っているかを決める必要なんてないし、自分がそう思うならば、そう信じているのなら、そのように生きていけばいいんだと思ってみた。でもよく分からない。
以前は読んだ本の内容が理解できなければ、自分の理解力のなさ、読解力のなさを卑下したものだけど、今では「本にあるすべてを理解できるなんて幻想だった」と思えるようになった。
『読書セラピスト』がどういう物語なのか、私はどうやら言葉で表せる人でないらしい。ただただ、とにかく本が読みたい、むさぼるように読みたいなぁという思いだけが強くあって、それで充分なのだろう、むしろそれはとても嬉しいことなのではないか。読書を通じて読書熱が高まるなんて、これ以上ないほどの幸せなのではないか。
もっと本を読みたい。もっと本を読もう。