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結婚を決めたら、急に情緒不安定になった話。

私は幼少期を、両親が不仲な家庭で過ごした。泣いて蹲る母親と、それを見下ろす父親。私はこわばり冷え切った母の手を、幼いながらも必死でさすって温めていた。

「好き」が重なって、一緒に生きることを選んだのに、どうしてぶつかりあうことしかできないんだろう。結局は「離婚」という道を選んだ両親を、特に嘆くことはない。――他人同士、違う生き物。だから、意見の衝突だって仕方ない。でも、どうして人は、結婚するんだろう。テレビを見ても、周囲を見回しても、結婚したのに不倫とか、泥沼の末に離婚とか。結婚は人生の墓場、という言葉もあるくらいだ。別に、無理に結婚して、誰かと生きる必要はないんじゃないか。

今の時代は、ソロライフを楽しむ人だって多い。大好きなペットとのんびりライフ。大好きな同性の友達とシェアハウス。生き方は多様化していく。そんな時代に、敢えて結婚する意味ってなんだろう。
――私のなかにはずっと、そんな問いがあった。

でも、キャリアコンサルタントの資格をとる際、自己分析を重ねる中で「幸せな家庭」へと、ずっと憧れていた自分に気づかされた。陽の当たる道を、仲良く手を繋いで。「今日もいい天気だね」って笑いながら、隣り合って歩く姿を、ずっと夢見ていた。家に帰るのが憂鬱になることもなく、毎日のように喧嘩を繰り返して、涙することもなく。顔色を窺って、気を遣うこともなく。小さい頃には望んでも得られなかった、そんな「家庭」を、得てみたいと思うようになった。

この人となら、楽しく過ごせるのかも知れない。
有難いことに、そんなたった一人との出会いがあって、結婚を決めた。
なんとなくだけど、ときに意見を違えることがあったとしても、お互いの価値観をぶつけあうことなく、私は私、あなたはあなただね、って、笑って過ごせるような気がしたから。

でも、入籍の日が近づくにつれて、急に気分が滅入ったり、泣きたくなったり、訳もなく怒り出したくなるような日が増えた。いわゆる「マリッジブルー」ってやつかも知れない。

自分で決めたはずの「結婚」が、現実になると急に怖くなった。別に、彼と喧嘩をしているわけでもない(むしろとても平和で、喧嘩の「け」の字もなかった)でもなんだか見えない不安がずっと心にあって、そわそわ落ち着かないし、何故だかイライラするし。でもその理由が見当たらなくて、それに対しても少し苛立った。

こんなご時世だから、式もやらないし、特に大々的に結婚報告をしたわけではない。でも、結婚を伝えた数名には「よかったね!」と言ってもらえて、その言葉はたしかに嬉しかったものの、こんな漠然とした焦りや苛立ちをうまく伝えることもできなくて「ありがとう、特に何も変わらないけど」と答えた。

もう既に彼とは一緒に住んでいたから、ただ「入籍届」を出しに行くだけ。
事務手続き作業が苦手なのに、いっぱい手続きがあるから落ち着かないのかな。きっとそうだ、そうに違いない。じゃあ事務手続きの準備をしておけば安心だ!と思って、全部調べて紙に書きだした。確かに少し落ち着いたけれど、喉の奥になにかが引っ掛かっているような、違和感というか、不安のようなものはずっと残り続けていた。

私は、中学生時代にBUMP OF CHICHKENというバンドに出会ってから、ずっと彼らの音楽に、そしてボーカル・藤原基央の言葉に救われてきた。変わっていく音楽性、彼の結婚。一方的に神と称えた藤原基央に、勝手に期待して勝手に傷ついて(ひっそりと歌の歌詞を入れ込んでいる時点でもう痛いファンだというのは重々伝わっていると思うが)でもやっぱり、彼の言葉をお告げのように大切にして生きてきた。受験、就職、転職、親友との死別。節目には必ずBUMPの曲を聴いている。

入籍を前に、実家で色々と話を済ませた帰り道。
車の中でふと、今回もいつものようにBUMPの歌を聴いてみよう、と思った。もしかしたら、この焦りの正体に気づけるかもしれない、と感じたから。

なんとなく「明るい感じの歌は違うな」と思い、昔から好きだった「Title of mine」をチョイス。
https://www.youtube.com/watch?v=C4W_-KILotU

眠れない夜に、聞き飽きた曲をぼんやりと聞きながら
何が怖くて、何が必要なのかをずっと考え続ける歌。
今の自分の気分に、なんとなくあっていると思った。

曲を聴いているうちに、学生時代の自分は、この曲を聴きながら「自分も「君に触れていたい」って思えるくらいに、大切な人と出会えるだろうか」と考えたことを思い出した。本当は、両親が仲良くて、顔色なんて窺わなくても信頼関係がそこにあって、変わらずずっと確かな絆がほしかった。でも結局人は裏切るから「孤独でもいいや。そのほうがずっと楽だ」と思った日もあった。

大人になって、それなりに人との距離の取り方や、本音のぶつけ方も学んで。でも、やっぱり人と深くかかわるのはへたくそなまま。「もかちゃん、何か困ったことがあったら言ってね!」と優しく声をかけてくれた人を、それとなく遠ざけたり「大丈夫だよ」と、笑顔を作って断ってきたこともあった。勇気を出して、助けてもらったあとで「本当に頼ってよかったんだろうか」「迷惑だったんじゃないだろうか」と思い悩む日もあった。

自分を絶対に裏切らない、と信じられる相手と、
あたたかな「家族」を、自分の手で築くこと。
ずっと心のどこかにあった憧れが、憧れじゃなく、手に入ろうとしている。

孤独を望んだフリをしていた
手のぬくもりはちゃんと知っていた
その手に触れて いつか離れる時が来るのが怖かった
~Title of mine より~

そのフレーズが流れた瞬間、急に涙がばかみたいにあふれてきた。
ああ、そっか。私は「ずっとほしかったものが手に入って、それを失うのが怖くて焦ってたんだ」と、すとん、と心に理由が落ちた。

母は、惜しみない愛を私に注いでくれた。
実の父だって、私のことが憎かった訳じゃない。愛してもらった記憶は、ちゃんとある。ただ、ボタンの掛け違いで、結果的に壊れてしまっただけなのだ。

私はもともと、人のやさしさや、幸せな瞬間を知っている。
その瞬間を知っているからこそ、再びそのやさしさや幸福に触れたら、それが壊れることを想像する。だったら最初から、その幸せなんてない方がいい、と思ってしまったこともある。

でも、人は誰かと関わらずには生きていけない。
たくさんの人がいるなかから、自分で「この人と生きていく」と手をとったその人を信じられないなら、その人を信じる努力ができないのなら、結婚なんてしないほうがいい。

まだ訪れてもいない「壊れる瞬間」を勝手に想像して、ビビってた自分に気づいたら、少しだけ気持ちが楽になった。何を恐れているかが分からなければ対策のしようがないけれど、自分の恐怖の対象がわかっていれば、どうにか乗り切ることはできそうな気がする。

私の隣を歩くと決めてくれた、たった1人の手を、いつか自分から離す日がくるかもしれない。たった1人のその人から、手を離される日がくるかもしれない。あるいはどちらかが、何らかの理由で先にいなくなるかもしれない。

はじまった瞬間から、終わりを想像するなんて馬鹿げているかもしれないけれど。いつか訪れるかもしれないその日に、後悔だけはしないように。今目の前にいてくれるこの人を、自分なりに大切にしていきたい。信じて、信じてもらえる努力を重ねていきたい。

――そして、そう思わせてくれる人に出会えた幸福を、見失わずに生きていきたい。

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