「死にたい」が肯定される闘病垢
題名を読んでそんなことねえよと思った人もいるかもしれないが、私は死ぬことが肯定されるとは言っていない。死にたいという気持ちが肯定される(否定されない)と言っているのだ。
ここでの闘病垢とはTwitter内のことを指す。
私は昨年、約半年間闘病垢ユーザーだった。かなり入り浸かっていたように思う。
闘病垢は、死にたい気持ちを抱えた人間がどうにか生きていくためのひとつの手段だと思う。
ギリギリのところにいる人の居場所にはとてもいいと思う。
私は今、どん底を脱出したと思っている。
客観的に見たら、引きこもりのだし通院しているし薬も飲んでいる病人だ。良くないことをしたい衝動にも駆られるし、気づいたら泣いている。特技は昼夜逆転だ。
これでもだいぶ良くなった方なのだ。
正直、落ちるとまたあの世界に戻りたくなる。
似た境遇の見知らぬ人にに見守られている生暖かい世界。
死にたいと発言しても誰も否定しない世界。
「死にたい」「未遂しました」という内容のツイートに多くのいいねがつくのはあの界隈だけだ。
死にたいと思うのは仕方のないことだし、止めようと思っても止められない。
気が済むまで、いくらでも考えていいと思う。実行しなければ。
でも、ちょっと死にたいと思う度に「死にたい」とツイートし続けていると、自分の中で「死にたい」という言葉に対するハードルが下がってくるのだ。
死にたいという感情を無かったことにせずに言語化していくのは大切なことだ。
しかしあまりに言うようになると、ネガティブが加速する。
一晩寝たら忘れていたかもしれないネガティブな感情が全部「死にたい」に置き換わってしまう。
それがさらにエスカレートすると、死ぬことしか見えなくなる。
闘病垢には自殺を図ったことがある人、それを詳しくツイートしている人がゴロゴロいる。
自分はやらないぞと思っていても、知らぬ間に変な知識がついて引っ張られるので関わる人は選んだほうがいい。
世間に理解されづらい病気をわかってくれる人ばかりだから自分の気持ちを言える場所ができるのはいいことだ。
確実に救いになる。
でもそれと同時に、自分にとってマイナスになりかねない要素も満載だと覚えておいた方がいい。
私は闘病垢らしい闘病垢をやめてだいぶ楽になった。人に引っ張られやすい私には向いていなかった。
noteは、Twitterほど気軽に書き込めるアプリではない。
一旦考えてから発信する、冷静さを取り戻すことができて、私には合っていると思う。
闘病垢についての一個人の意見として、何かを考えるきっかけになってくれたら嬉しい。