誰のためのデザイン D.ノーマン
バンコクの安宿でどう蛇口を回してもシャワーからお湯が出なくて、つたない英語でロビーに聞きに行ったら「お湯?出ないよそんなん」とけんもほろろに追い返されて、イスタンブールの値段の割に妙に内装が綺麗なホテルで無邪気に蛇口を回してシャワーを浴びたらほぼ熱湯が出てきて声にならない叫びをあげる。
ヒューストンのトランジットで泊まったシェラトンホテルのシャワーの温度調節にやや苦労したかと思えば、ハワイのシェラトンワイキキのシャワーはなんの苦労もなく適温になってやっぱりハワイかと思い、ブルックリンのドミトリーのシャワーは蛇口が一つしかついていなくてスタイリッシュだったけれど、お湯を出すのに必ず冷水を経なくてはいけなくて毎回数秒間の滝行を強制されてなんとも言えない気持ちになる。
たかだかシャワーの蛇口なのに、どうしてこうも国によって、もっと言えば宿によって体験が異なるのか常々不思議に思っていた。余裕のあるときは不便さもそれが旅の醍醐味なんてうそぶくこともできるけれど、慣れない異国の地で疲れ果ててやっとたどり着いたオアシスことシャワーが最悪の体験になってしまった日には、現地のビールをヤケ飲みしてふて寝を決め込むしかない。そしてだいたい次の日にはお腹を壊している...
だから「誰のためのデザイン」という本の、分かりづらい蛇口を紹介しながらデザイン上の問題点をあげるその説明に首を縦にぶんぶん振り回しながら膝を打って共感し、同時に頭の中を走馬灯のように駆け巡った今までの宿でのシャワー体験がどうしてそうだったのか理解した。
おかげでなんとなく使いづらいなと蛇口を捻りながら感じたときに、それがなぜなのか自分の中で分析できるようになった。それは例えば捻る方向と表示があべこべだったり、基本的には落下するイメージである水を出すのに蛇口のレバーを上にあげなければいけなかったりと様々だけど、なるほどだから使いづらいのかと納得することでイライラしなくなった。
さらに言えば分析できるから、その対処法を自分の中で組み立て実践することもできる。これが中々面白い。
今住んでいる家のシャワーを出すには蛇口を右に回さなくてはいけないのに、表示を見て回そうとするとどうしても左に回したくなってしまう。その度にやってしまったと反省する。でもまたやってしまう。ああもう!と自分の愚かさを責めたくなる。
しかし、この本を読むと基本的に悪いのはデザインであり人ではない、落ち着きなさい、的なことが書いてある。ふむふむと思ってしげしげと自宅の蛇口を眺めると確かにこの表示ではシャワーを出そうとして無意識に左に蛇口を回してもしかたがないと納得する。
そこで自分の中でのシャワーの流れ出るイメージを調整することにした。つまり表示ではなくてシャワーの位置関係と蛇口を回す方向をリンクさせて考えたのだ。幸い家のシャワーは蛇口の右側についていた。だから蛇口の表示ではなくシャワーの位置だけを見て右にあるから右に回すと考えるようにした。すると面白いことにそれ以降は蛇口を回す方向を間違えなくなった。よし!
これはこの本の中に出てくる用語を使うとメンタルモデルを自分の中で再構築したということになる。メンタルモデルというのは簡単に説明すると、あるモノを目の前にした際に人が無意識のうちに頭の中で作り上げるそのモノの仕組みのことで、人がモノを操作する際にはこのメンタルモデルに寄った判断をする。つまりこのメンタルモデルが間違って組まれていると人は操作を間違えてしまう。
例えば天井にライトが右と左の二つ付いていて、そのそれぞれにスイッチがあったとする。すると右のスイッチは右のライトに左のスイッチは左のライトに対応すると普通は考える。実際中の配線がどうなっているかは別にして、人はそういう仕組みになっているだろうと勝手にそして無意識に想像する。
だからスイッチが左右逆に対応していると人は混乱するし慣れるまで間違え続ける。もしかしたら一生間違え続けるかもしれない。いつまで経っても間違え続ける自分に、頭をぽりぽりかきながら半ば呆れ、そして半ば諦める。でもそれは実はデザインが間違っている、というのが「誰のためのデザイン」が共通して発し続けるメッセージである。
デザインというとどうしても見た目の話になってしまいがちだけれど、人とモノとの関係性をよりよくするためのものであって、綺麗な色づかいやハッとするほど美しい装飾だけが、デザインの目的ではない。
むしろそれよりも人間の認知の構造の探索やふるまいを深く観察した結果えられた洞察、そういうものが役に立つ。この本では著者のドン・ノーマンがずっと考え観察し、そして実践してきたデザインという営みの理屈をとても丁寧に説明してくれている。
一生懸命読んだところで、モテるイラストも素敵なレイアウトも作れるようにはならないし、せいぜい家のシャワーの蛇口をひねる方向を間違えなくなるぐらいにしかすぐには効果は現れない。
でも、実はそれが一番大事なのではないか、そんな風に思えるようになるまでは自分も随分と時間がかかった。だってやっぱりおしゃれで良い感じのモノをデザインする人たちはカッコいいから。彼ら彼女らがデザインしたモノの見た目だけを見てこういうものをデザインしてみたいと思ってしまう。
本当はそのデザインの奥に蛇口のひねる方向を間違えさせない工夫が山のようにしてあって、それこそに価値がある。数冊デザイン関連の本を読んできてとりあえずの結論はそんなところになるのだろうとぼんやりと考えている。
その総まとめとして「誰のためのデザイン」という本は最適だったように思う。どちらかと言えば感覚的に捉えていた部分をこうしてロジカルに言語化して説明されると、すっと身体に溶けるように理解が進んでいった。
本を読んでその思想性に触れるのにはそろそろ飽きてきたから、次は実践してみようかなと思っている。何をしようかと考えて色々と妄想を膨らますこの時間が実は一番楽しいのかもしれない。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?