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#01 消費社会の子どもたち、その生命の欲動 (茂木秀之)

消費社会は評判が悪い。
もともと批判のために作られた概念という面もあると思うが、いよいよ近代の次を構想しないとにっちもさっちもいかなくなってきた感のある昨今においてはますます、消費社会を肯定するような知的な言辞はまず聞くことがないと言っていい思う。そして、批判の多くに私は共感する。だけど、その消費社会のまっただ中を生きてきて、それほど悪いことばかりだったとも思わない。特に子どもだった頃を振り返ると、なかなか良い思いをしてきたと思うのだ。

誰もが大量供給される規格化された商品を消費する、消費社会。1983年生まれの私と同年代の男子たちは、だいたいみんな、コロコロコミックやジャンプを読み、ファミコンやSDガンダムで遊び、とんねるずやウッチャンナンチャンのテレビに夢中になった。それらを享受することは個人の資質と関係がないし、生まれ育った地域とも関係がない。日本中どこでも、誰でも、だいたい同じものを体験している。

近代化する前の社会では、地域によって、その土地で育ったものに固有の体験というものが少なからずあったと考えられる。その土地の風土によって生活や生業が形づくられ、そこに適応するための儀礼が行われた。画一化、均質化を本質とする近代社会では、そのような固有性はほとんど存在しない。

時代が変わり、環境が変わっても、子どもたちは遊ぶ。80年代でも、江戸時代でも、古代でも。その姿は、手つきは、ずいぶん違うものであるだろうけれど、子どもたちが遊ぶことに変わりはない。

私たちも、前近代からあったと思われる遊びを少しは体験している。「かごめかごめ」のような囃子唄、凧あげや羽子板のような行事に付随する遊び。それらと、たとえばファミコンとは、一見するとあまりにもかけ離れているように見える。だけど、それらの源流をたどってみると、どうだろうか。

民俗学や人類学では、子どもの遊びは宗教儀礼に起源を持つ、というのが定説であるようだ。多田道太郎は『遊びと日本人』で、日本の子どもの遊びの起源を探っている。たとえば「かごめかごめ」は、神降ろしの儀礼にルーツを持つという。輪に囲まれる人は依代だ。囲む者たちは囃子唄をうたい、神を呼び込む。そう言われてみれば、かごめかごめで鬼になって回り歌う集団に囲まれているとき、なにか普通ではない感覚をおぼえていた気がする。それは神を呼び込むトランス状態に連なるものなのだろう。

多田は、儀礼の中でもとりわけイニシエーションに遊びの起源があると考える。イニシエーションは、子どもをその共同体の一人前のメンバーにするために行われる。どのような人間が「一人前」なのか?それはその土地の風土が形作る共同体のあり方によって異なる。

近代社会では、そのような共同体は解体されてゆく。あらゆるものが画一化する社会で、生活も生業も「一人前」の条件も、画一的な大量生産品になる。そこではイニシエーションさえも量産品だ。イヴァン・イリイチは学校こそが近代社会のイニシエーションであると喝破した。子どもたちを、量産品があふれる消費社会にふさわしい量産品の一人前にするべく、学校というイニシエーションは世界中に普及した。それはかつてのイニシエーションと違って、神や精霊に呼びかけ、普段は知覚できない領域にある力を引き出そうという意思はない。近代社会では、そのような、普段知覚する世界の外部にある領域は存在しないことになっている。

それならば、子どもたちの遊び、僕たちがやってきた遊びも、外部の領域とは関わりがないのだろうか。

中沢新一は『ポケットの中の野生』で、『ポケモン』を中心に、ゲームの構造を分析している。中沢によれば、RPGの物語は神話や民話と同じ構造を持っているという。何かが欠落した状態から物語は始まり、主人公はそれを回復するために旅に出る。「敵対者」に遮られ、「援助者」の助けを得ながら、やがて主人公は世界を回復させる。
多くのRPGでは、「敵対者」として「モンスター」が登場する。「モンスター」とは、人が理性によって体系化した(それは社会を形成して生きていくために必要なことだ)領域と、その外側にある、混沌とした、生命の欲動が渦巻く領域とのあわいで、混沌からこちら側へと這い出てくる存在だ。混沌の象徴であり、しかし混沌そのものではない、モンスター。それを理性の側に馴致することで、人は根源的な生命の欲動とのつながりを維持しながら、体系化した領域を生きていくことができる。
人を相手にしたゲームと違って、目に見えないプログラムを相手にしているからこのような体験が可能なのだと中沢は言う。そしてこれは、かつてのイニシエーションで体験されたことに近いのではないだろうか。たとえば洞窟の奥深くの暗闇で体験されたことを、僕たちはビデオゲームで体験してきたのではないだろうか。

かつてあったような共同体はもう存在しない。僕たちはどこまでものっぺりと広がる均質な世界を生きている。だけどその中で、同じ量産品を消費しながら、ある種のイニシエーションを体験しているのかもしれない。のっぺりとした消費社会にのっぺりと広がる、薄く広い共同性。かつての共同体のような強いつながりはない。意識されることすらない。だけどあらゆる場所で、死ぬまで知り合うこともない僕たちは、同じイニシエーションを体験している。それは量産品だが、まがいものではない。この社会を生きるために、この社会にありえるやり方で、その外側にある生命の欲動に触れているのだ。

テレビゲームといえば、小学校低学年の頃だったか、ファミコンのACアダプタのコンセントに刺す部分を舐めたことがある。どういうわけか、舐めたらどんな感じがするか気になったのだ。同世代の友人にそれを話したら、なんと自分もやったことがあるという。

私もその友人も幼い子を持つ親である。赤ちゃんは、舐める。とにかくなんでも、まず舐める。舐めて、舐めて、まさに世界を味わっている。自分と舐める対象、という明確な区別もないだろう。私は舌で世界とつながり、世界は私そのものだ。

もともと感覚器官というのは、対象を認識するものではなく、世界に直接つながるものだったのではないだろうか。

イリイチは晩年のインタビュー集『生きる希望』でこんなことを語っている。千年ほど前までの西欧では、「見ること」はいわゆる視覚的に対象を捉えるということとはずいぶん異なる意味を持っていたという。それは「自分が凝視する対象との身体的交接と見なされていた」のだ。「もしわたしがあなたを見つめれば、わたしはあなたをわたしの両目で抱擁している」のだし、教会で聖像を見て祈ることは「天使の栄光に包まれている永遠界を覘き見る」こと、「イコンによって再現されたものに自分の目で触れるばかりでなく、そのまなざしを甦った者の肉と混ぜ合わせたものを持ち帰る」ことだった。

また、「手」についてこう語っている。やはり千年ほど前の西欧で、手と道具は分けて考えられることがなかった。鍬と、それを持つ手とを、区別することはできなかった。手は道具を使うためのものではなく、道具を使って何かを達成するためのものでもない。手と世界は分けることができず、世界が対象化されることもなかった。

僕と友人がアダプダを舐めた感覚と、赤ちゃんが舐めるそれとが、連続したものであるかどうかはわからない。それは置いておいても、生命力とは無縁に見える量産品で覆われたこの社会を生きながら、案外人は、プリミティブな感覚を忘れないでいると思う。子どもたちは遊び、子どもだった僕たちはその延長を生きている。今も生命の欲動を感じている。

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