手帖(変えられない過去と、わたし)
社会的に弱い立場に陥る時がある。
無職、貧しさ、不登校、引きこもり、それが私の人生だったりする。そんな時、わたしは鏡を見る。己だけが、言葉にできない感覚的な思想だけが、ただ誇れるもので、視線でそっとわたしを抱きしめる。そこに、正確な正当性は感じられない、平々凡々なのがまたこわい。きっと、目に見えないものに護られているんだと思う。他人に明確な悪意を向けたことのある人間は、幸せにはなれない。これは明らかで、道理に適っている。人を傷つけると、自分も傷つく。いつか、可哀想なことをしてしまった、と思う。その感情がとても醜いものであることを、わかれ。何様の分際で、"可哀想"だなんて、慈悲に似た、自責と、無責任な介抱なのではないかと思う。それがいえるのか。だから、私は、他人に明確な悪意を向けたことのある人間は、幸せにはなれない、と思う。改心したとか、悪人のわたしは特別だ、とか、おもわないでほしい。道理とは、自分が決める、道で、教育で、洗脳だ。決して悪には屈してはいけないし、時には細かいことから目を瞑らなくてはいけないこともある。だからこれは、道理ではない、希望の話だ。私は、一度死んだ。他人を傷つけたことで苦しんで苦しんで、マイノリティを、背負った。もう、欠けのない、人間には戻れない、そう思っている。し、実際そうだと思う。ただ、幸せになれなかった時の言い訳ではない。それがただの事実で、一生背負っていくもの。私が幸せになることを憎む人間がいる事実。恐ろしくても、先がなくても、その現実を直視しなくてはならない。それでも人生は続いていく。こんな自分を偉いとは思わない、ただ、あなたと違うのは向き合っているかどうか。許されることではない、ただ、運良くのうのうと生きられているあなたを、わたしは見つめない。追わない。期待しない。それだけである。