ウンベルト・エーコ『美の歴史』

いったいいつ読み始めたのか思い出せない。
随分放っておいたものだ。エーコ先生すみません。
いわゆる鈍器本である。
カラー図版が多く紙質が良いので、439ページというページ数の割にはかなりの重量がある。
試しに体重計で測ってみると1.35kgある。
868ページのロベルト・ボラーニョ『2666』が1.20kg、880ページの『ナボコフ全短篇』が1.15kg、1091ページの小熊英二『1968(上)』が
1.40kgなので、やはりかなりの重量だ。
鞄に入れて持ち歩くこともできないし、腱鞘炎になる怖れがあるので、手に持って読むことも出来ない。
そんな訳でずいぶん遠ざかってしまっていた。/

再び手に取ったのは、『失われた時を求めて』の語り手である「わたし」やスワンの美術に関する素養に憧れて、少しでも美術に関する知識を吸収したいと思ったからだ。
もともと出無精で美術館めぐりなど滅多にしないのだが、こんな付け焼き刃でどうにかなるだろうか?/

美術に関する記述がほとんどなのかと思いきや、後半はユイスマンス、ボードレール、マラルメ、ランボー、ジョイス、カフカなど文学関係の記述も多かったので、思いのほか快適に読み進むことが出来た。
収穫は、マラルメの詩論の一端に触れることが出来たことと、ジョイスの「エピファニー」についての文章が読めたことなど。
一方で、「パサージュ」や「ウィーン分離派」について、あまり触れられていないのが残念だった。
どうやら、エーコ先生は既に語り尽くされたかのようなそれらのテーマに触れるよりも、機械の美について語る方を選んだようだ。/

カフカの「流刑地にて」からの引用を読んでいると、いまや「処刑機械」が地球規模に拡大された一つのシステムになってしまっているような気がしてきた。
温暖化による気象災害の激甚化、気候の過酷化と、傲慢にもそれを無視して継続される経済活動と戦争が、更にいっそう災害を激甚化させて行く。
そして、それらの針でできたシステムによって、今、人類の上にその罪名が刻み込まれようとしているのではないだろうか?/

第ⅩⅤ章 「機械の美」を読んでいて思った。
人間は、再び「ジュラ紀」を創り出しているのではないか?
機械仕掛けのプテラノドンやティラノサウルスが跳梁跋扈し、人々をついばみ、踏みつぶしては咆哮する「ジュラ紀」を。/


【行為における美:ジャン・ジャック・ルソー『新エロイーズ』1761年:
私はいつも、善は行為に移された美にほかならず、一方は他方と深くつながり、両者はともに秩序立った自然のなかに共通の源泉を持っている、と信じてきました。この見方から導きだされることは、趣味は知恵と同じ手段によって完成されること、美徳の魅力に深く感動する魂は、それと比例して、ほかのあらゆる種類の美についても敏感であるはずだということです。見ることと感じることは、同じようにして鍛えられます。というよりも、すぐれた眼は、鋭敏でこまやかな感情にほかならないのです。(略)それでは趣味を陶冶するにはどうすればよいかといえば、見ることと感じることを等しく鍛え、吟味による美の判断と感情による善の判断とをともに鍛えるのです。】/


【主観主義:デイヴィド・ヒューム『道徳、政治、文学に関するエッセイ』XXⅢ,1745年頃:
美は事物そのもののうちにある性質では全くない。それは、事物を観照する心の内にしか実在しない。だから、各々の心はそれぞれ相異なる美を知覚するのである。ある人は、別の者が美を感じるところで醜を知覚しさえするかもしれない。】/

【驚くべき諸関係の多様性:ドニ・ディドロ『美について』1772年:
同一対象のなかにまったく同じ関係を知覚し、それと同じ程度に美しいと判断する人は、恐らくこの地上に二人といないだろう。】/

【感覚の放縦:ランボー「P.ドムネイへの書簡」1871年:
詩人はあらゆる感覚の、長期にわたる、大がかりな、(略)壊乱を通じて見者となるのです。あらゆる形態の愛や、苦悩や、狂気。彼は自分自身を探究し、自らのうちにすべての毒を汲み尽くして、その精髄のみを保持します。それは、(略)超人的な力のすべてを必要とするほどの責苦であって、そこで彼は、とりわけ偉大な病者、偉大な罪人、偉大な呪われ人となり、ーーそして、至上の〈学者〉になるのです!ーーなぜなら彼は未知なるものに至るからです。】/

【マラルメが『ディヴァガシオン』で述べているように「ある事物を名指すことは、詩の楽しみの四分の三を取り去ってしまうことだ。詩の喜びは少しずつ推察していくことから与えられる。「暗示すること」、そこにこそ夢がある。象徴を作っているこの秘密を完璧に使うことによって、少しずつ対象を呼び起こし(中略)正確なイメージとイメージの間の関係を確立すること。(略)一輪の花!と言ってみると、私の声が吸い込まれて消えたその闇から、知られている夢とは違うある形が音楽を思わせながら現れてくる、甘美なイデアそのもの、どの花束にもない花が。暗闇のテクニック、空白からの喚起、言うまでもなく不在の詩学である。】/


【象徴主義は今日までヨーロッパ文学全体に激しい流れとなって入り込み、(略)追随者たちを刺激している。しかし、その流れから、物こそ啓示の源泉であるという現実理解の異なる方法が形をとりはじめる。それは、(略)若きジェイムズ・ジョイス(略)によって、理論的レヴェルで定義された詩の技法であった。(略)このようなスタンスのルーツはウォルター・ペイターの思想にあった。(略)
『享楽主義者マリウス』において、そしてとりわけ彼の著書『ルネサンス』(1873年)の結論において、彼は「本質顕現の光景(エピファニック・ヴィジョン)」という精度の高い美学を作りあげている。ペイターは「エピファニー」(その後ジョイスによって「顕現」という意味で使われる)という言葉を使っていないが、その概念をほのめかしている。特に感じやすい状態の時に(略)、事物が新たな光のもとにわれわれに現われるのだと。(略)
そうして、われわれはその瞬間になって初めて、その事物についての完全な体験を得たことを理解するーーそして、人生はそのような経験を積むためだけでも、生きるに値するのだと、理解する。エピファニー(顕現)とはエクスタシー(法悦)である。(略)この顕現は超越的なものではなく、この世界の事物の魂である。それは(略)物質主義者の法悦なのである。】/


【ここでも再び、ボードレールへの回帰が見られる。彼はまさに、これらの潮流すべての源泉であった。「目に見える宇宙というものは、イメージと象徴の苗床にすぎない。想像力(つまり芸術)がそれに一つの場所を相対的価値を与えるのだ。一種の牧草のようなもので、それを想像力が消化し、別のものに変えなければならない。」】/


【拷問具:カフカ『流刑地にて』1919年:
【「そうです、馬鍬です」と、士官は言った。「馬鍬という名がぴったり当てはまるのです。針がいくつとなく馬鍬のように並んでいるばかりか、この部分全体がまた馬鍬のような働きをするのです。(略)ーーつまり、ここが、(略)ベッドです。(略)この褥(しとね)の上に、あの処刑囚が、腹ばいに寝かされます。むろん、裸で。(略)」

ー中略ー

「つまり、こうなのです。ベッドにも、製図機にも、それぞれ電池がついています。(略)あいつがしっかり縛りつけられますと、たちまちベッドが動きはじめます。ひじょうにすみやかに、微動を続けながら、小刻みに、左右動と上下動を同時に行うわけです。(略)つまり、ベッドの運動は、一分の狂いもなく、馬鍬の運動と同調していかなければなりません。この馬鍬のほうに、判決の実際の執行が、ゆだねられているからです」(中略)ーーあいつが寝かされて、ベッドが微動しはじめますと、馬鍬がからだの上へ降りてきます。(略)馬鍬はずっと一様に運動を続けているように見えます。小刻みに震動しながら、その突端をからだに突き刺していきます。】/

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