『イプセン戯曲全集4』(原千代海 訳/未来社)
収録作品:「人形の家」、「幽霊」、「人民の敵」、「野鴨」、「ロスメルスホルム」。
◯「人民の敵」:
舞台はノルウェー南部の湯治場の町。
主人公のストックマン医師は温泉管理委員会の委員も兼務している。
兄のペーテルは、市長兼警察本部長、温泉管理委員会の委員長。
ある日、ストックマンは、一通の手紙を受け取る。
それは、温泉全体の水質が黴菌だらけだという報告書だった。
前年、湯治客の中から何人か病気に罹った者が出たので、彼が内密に調べていたのだ。
ところが、この事実を兄の市長に報告したところ、市長は改修工事には大金がかかり、工事完了まで二年間は温泉を閉鎖しなければならなくなると、このニュースを握りつぶそうとする。
そして、ストックマンがこの事実を住民に報告すべく開催した集会で、彼は「人民の敵」と宣告される。/
内部告発をテーマとしたこの戯曲を読んで、僕は水俣病と雪印牛肉偽装事件※を想起した。
チッソの城下町である水俣で、患者たちが認定を勝ち取るまでに味わったであろう疎外や、告発した医師たちを待ち受けていた困難に思いを馳せた。
また、ストックマン医師が被った激しいバッシングや、彼が陥った村八分状態は、西宮冷蔵のことを想起させた。/
※雪印牛肉偽装事件:
2001年に起きた雪印食品による補助金詐取事件。
同年、国産牛肉に牛海綿状脳症(BSE)にかかったものがあることが判明。
これを受けて農水省がBSE対策として実施した国産牛肉買い取り事業を悪用し、同年10月に雪印食品関西ミートセンターが、安価な外国産牛肉を国産牛肉のパッケージに詰め替え、農水省に買い取り費用を不正請求し、2億円の補助金を騙し取った。
2002年1月、西宮冷蔵の水谷社長がマスコミに告発を行い、偽装が発覚。雪印食品は経営が悪化し、廃業した。
告発者の西宮冷蔵は事件直後はマスコミで勇気を称えられたものの、得意先や同業者らの反感が根強く、2014年、大口取引先からの取引停止により休業。/
発表後140年経っても極めて今日性に富んだ作品だ。
今後も、永く読み継がれて行くべき作品だと思う。/
表題について:
本書以外を見ると、『イプセン戯曲選集 : 現代劇全作品』(東海大学出版会/1997)は「人民の敵」と、『笹部博司の演劇コレクション』(星雲社/2008)、
(岩波文庫/2006)が「民衆の敵」となっている。
個人的には、「人民」という語は、中華人民共和国や冷戦期におけるワルシャワ条約機構諸国の国名に多く使用されていたこともあり、革命や社会主義、共産主義の臭いを強く感じる語であり、一方、本作は1882年の作品で、舞台もノルウェーであることから、「民衆の敵」の方がしっくりくると思う。/
亡くなる前年の1983年、ミシェル・フーコーは、カリフォルニア大学バークレー校で全六回の連続講義を行った。
僕はそれを彼の遺言として読んだ。
『真理とディスクール―パレーシア講義』(中山 元 訳/筑摩書房)である。/
パレーシアとはすべてを語るということであり、パレーシアを行う者、パレーシアステースとは「自分の考えていることを包み隠さず語る者」のことである。
また、誰かがパレーシアを行使していると言われるのは、そしてパレーシアステースであると判断されるのは、真理を語ることで、その人がリスクを引き受け、危険を冒す場合に限られる。
つまり、パレーシアとは、危険に直面して語る勇気と結びついているのだ。/
ギリシャの昔から現代に至るまで、時の権力者の意向に反して真理を語るということは、大きな危険を伴う行為なのだ。
権力者は、その権力が大きければ大きいほど、意に染まぬ邪魔者を排除しようとするだろう。
だが、全ての人々が権力者の怒りを怖れて彼の意向を忖度してばかりいたら、ナチス・ドイツやスターリン時代のソ連やプーチンのロシアのような悪と腐敗に満ちた社会が容易に現出するだろう。
社会が少しずつでも良い方向に変化して行くためには、パレーシアステースがどうしても必要なのだ。
パレーシアステースが死ななくてもいい社会を、そうしたシステムをなんとしても作っていかなければならない。/