『安部公房全集004』

◯「飢餓同盟」:
僕と同年(1954年)生まれの作品。
安部公房のくせに、何回読んでもあまり印象に残らない作品。
「飢餓」で言えば内田吐夢『飢餓海峡』には到底かなわないし、一瞬『けものたちは故郷をめざす』と混同しそうになるが、あちらの方が飢餓感に満ちている。
そんなことで、途中で読書のモチベーションが雲散霧消してしまった。
しばしページを閉じて、その間に数冊の図書館本が通り過ぎた。
もうあらすじを思い出せない。
登場人物たちも定着してない。/


◯対談「新しい文学の課題」:
【白井(浩) 僕はひいき目に見るのかもしれないけれども、サルトルは、やはり文学だろうな。「自由への道」は芸術としての永遠的な価値を与えられるのではないかと思います。(略)

ー中略ー

安部 (略)しかし「自由への道」は、今までの範囲だけでも、二十世紀の傑作だと思います。】/


◯「オブジェ雑感」:
【(略)すぐれた映画は、すべてすぐれた無意味の追求によってすぐれているように思う。たとえば、戦後封切られた映画の中から、三つえらべといわれれば、まず「海の牙」、「忘れられた人々」、(略)。】/


この巻、中盤に中弛みはあれど、後半に至っていよいよ実が熟しつつあるのを感じる。/


◯「奉天ーーあの山あの川」:
【私が育った奉天というところは、あの殺風景な満州の中でもとくに殺風景な町である。(略)ほこりっぽく乾いた、樹木の少い町。流れの定まらない黄色くにごった河。象徴的にそびえている給水塔。町の南にひろがった小さな砂漠。青い、ギラギラしたとほうもなく広い空。その空におしつぶされたような黒っぽい煉瓦の家並。(略)そして、その向うには、コークスと煙の工場地帯が際限もなくひろがっている。
町全体がフライパンの中のように燃え上る夏。アカシヤの葉が白くちぢれてしまう夏。それから、零下三十度になり、カミソリの刃をふくんだ風が吹く冬。凍死人の冬。
それでも、その殺風景さにかえって心ひかれるとしたら、それはやはり故郷で
あるためだろうか。】/


出会うたびに引用したくなってしまう美しい文章だ。
そうだ、「故郷喪失者」という資格で安部公房こそが、やはり僕の父だったのだ。/


◯「列車テンプク」:
【クレマンの「鉄路の闘い」という映画を見た。

ー中略ー

私がこの映画の芸術的な高さに気をうばわれてしまっていたせいもあるかもしれない。戦後日本にきた外国映画のうちで好きなものはと聞かれたら、(略)この映画だけはその中にかならず加えようと思う。芸術の記録性、あるいは記録の芸術性の問題を、これほどはっきりと示してくれた映画は、おそらくこれがはじめてだ。

ー中略ー

すぐれた芸術とは、おそらく、決して現実に敗北しないもののことである。】/
】/


◯「猛獣の心に計算器の手をーー文学とは何か」:
この一編の評論のためだけにでも、この巻は手元に置いておく価値がある。/

【「なにを」と「いかに」の統一こそ、書き方の第一歩であり、技術主義的な偏見をうち破って、本来の意味での技術を発見する道ではないでしょうか。】/

【読者がどんなに大きな、強い、おそるべきものであるか、見事にその本質を言いあらわしたゴーリキーの『読者』という短篇の一節を次に紹介しましょう。

ー中略ー

「人間はまどろんでいる‥‥‥そしてーー何人も彼を目ざめさせない。彼はまどろみ、そしてーー動物に変って行く。彼には鞭が必要なのだ、また鞭の打撃につづいて火のような愛の愛撫が。(以下略)」】/

この部分は、ロシア・フォルマリズムのヴィクトル・シクロフスキーの「異化」の手法を想起させる。/

《それだからこそ、生の感覚を回復し、事物を意識せんがために、石を石らしくするために、芸術と名づけられるものが存在するのだ。知ることとしてではなしに見ることとして事物に感覚を与えることが芸術の目的であり、日常的に見慣れた事物を奇異なものとして表現する《非日常化》の方法が芸術の方法であり、そして知覚過程が芸術そのものの目的であるからには、その過程をできるかぎり長びかせねばならぬがゆえに、知覚の困難さと、時間的な長さとを増大する難解な形式の方法が芸術の方法であり、—以下略—》(ヴィクトル・シクロフスキー『散文の理論』水野忠夫訳/せりか書房)/

マクシム・ゴーリキー(1868年〜1936年)は、社会主義リアリズムの創始者。
『どん底』(1902年)、母(1907年)。
ロシア・フォルマリズムは、1910年代半ばから1930年代にかけての文学運動だから、十分接点はありそうだ。/

安部公房は、今まで読んだ範囲では特に言及はなかったと思うのだが、ロシア・フォルマリズムの運動や「異化」の方法をどう考えてもいたのだろうか?/

【作者の第一課は、読者を知るための、読者との闘いだと言ってもいいでしょう。作者が読者から発生する仕方は、読者が自分ーー作品によっておきた自分の感情の波動ーーを鏡にうつし、客体化してみることで、作者的部分が自分と分離し対立するという形をとります。】/

【手と心の統一、言いかえると、作家はその仕事のあいだ、読者になりきろうとし、しかも自分であることを保つ、その緊張の持続の中にいなければなりません。これが作者の第三課でしょうか。はやる心を手が抑え、しぶる手もとを心がせきたてるのです。(略)猛獣の心と計算器のような手、これが作者の理想です。】/

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