『大江健三郎全小説1』

東京大学ヒューマニティーズセンター主催のイベント「大江健三郎のアルバイト小説を読む」(2024.8.8開催)に参加するので、手に取った。

◯「飼育」:
山腹の村で黒人兵を飼育する。

だが、本当に「飼育」されているのは誰だろうか?
戦災から癒え、朝鮮戦争、ベトナム戦争で補給基地の役割を果たすことでさらに肥え太り、今では多額の思いやり予算さえも貢ぐことができるまでになったこの国。
北海道から沖縄まで、全国各地に130か所の米軍基地(1024平方キロメートル)を抱え、首都圏の上空には、新潟、栃木、群馬、長野、埼玉、東京、山梨、神奈川、静岡県の1都8県にまたがる広大な横田ラプコン(通称「横田エリア」という米軍専用空域)が68年間羽を拡げて、空から被占領国の住民を睥睨(へいげい)している。
米兵による殺人や強姦などの凶悪犯罪が何十回起きても、ただ静かに笑っている「人間の羊」たち。
それにしても、「羊」とは、なんと「飼育」に適した家畜だろうか?/


◯「芽むしり仔撃ち」:
学生の頃に読んでお気に入りの作品だったが、今読んでも断然良い!
濃密な描写が感化院の少年たちが疎開する山村の風景や匂いをものの見事に立ち上がらせている。
その後に書かれた小説たちのように、オーデンやブレイクやイエーツの詩の引用はないが、そのことが逆に描写に強靭さを与えているかのようだ。
何ものにも「倚りかからず」というわけだ。/


【人殺しの時代だった。永い洪水のように戦争が集団的な狂気を、人間の情念の襞ひだ、躰のあらゆる隅ずみ、森、街路、空に氾濫させていた。僕らの収容されていた古めかしい煉瓦造りの建物、その中庭をさえ、突然空からおりてきた
兵隊、飛行機の半透明な胴体のなかで猥雑な形に尻をつき出した若い金髪の兵隊があわてふためいた機銃掃射をしたり、朝早く作業のために整列して門を出ようとすると、悪意にみちた有刺鉄線のからむ門の外側に餓死したばかりの女がよりかかっていて、たちまち引率の教官の鼻先へ倒れてきたりした。殆どの夜、時には真昼まで空爆による火災が町をおおう空を明るませあるいは黒っぽく煙で汚した。】/


【僕らは鍬をふるって枯草と落葉のこびりつく褐色の地肌を掘りおこした。土は柔らかく掘りやすかった。白っぽい橙色のまるまる太った幼虫や、冬眠中の蛙、地鼠などが掘りおこされるとたちまち僕らの鍬がねらい正しく撃ちおろされて、それらは叩き殺された。谷間を淡くひたしていた霧がすばやく晴れていった。しかし、獣たちの積みあげられた死体が決して消えさらない臭気を新しい霧のようにそのあとへ充満させるのだった。】/

【「なぜお前、逃げなかったんだ」と南がいった。
「親父が死んでそのままだから、俺は逃げなかった」と朝鮮人の少年はいった。
(略)
朝鮮人の少年は南から僕へまぶしそうな眼をむけ、それから僕の赤く腫れあがっている鼻孔へ注目した。僕もまた、相手の広く平べったい顔の上のいくつかの蒼黒いしみを見かえした。僕の闘いの相手は脣に笑いをうかべた。
「お前、何ていうんだ?」と僕はあわてていった。「え?」
「李」と少年は自分の頬に性こりもなく浮かんで来る微笑をまぎらすためにうつむき、はだしの足にはいた藁で編んだ草履の爪先で柔らかい盛土の傾斜へそれを書いて見せた。(略)「李か」
「昨日のこと、俺はなんとも思っちゃいないぜ」と李がうつむいたままいった。
「俺もなんとも思っちゃいないよ」と僕もいった。】/

なんと美しい小説だろうか!
これまでに読んだ大江の小説のなかで一番好きな作品だ。/


◯「われらの時代」:
この小説は、どう考えてもサルトル『自由への道』の本歌取りではないか?
妊娠する愛人(頼子=マルセル)、共産主義者の友人(八木沢=ブリュネ)、加えてゴシック体で印刷された「猶予」(『自由への道』第二部「猶予」)の文字。/


【「若い日本の人間には、未来などはない。とくに現代の若い日本人に、それがない。(略)現代の若い日本人は猶予の時間をすごしているのさ、やがて執行される時を待って独房に坐っている。】/


根元に一片の狂信さえも持ち得ない《不幸な若者たち(アンラッキー・ヤングメン)》の【滑稽で無意味で、まったく勃起そのもののよう】なパフォーマンスは、もちろん不発に終わるだろう。
彼らの企てに決定的に欠けているのは、「意味」だ。

場末の小屋にかかったアングラ演劇のようなこの芝居、なぜか観る者を釘づけにしてしまうのだ。/


◯尾崎真理子「よろしい、僕は地獄に行こう」:

【武満徹が六二年に書いた角川文庫の解説の文章だけは、この作品にふさわしい価値を例外的に保っているだろう。
〈『芽むしり仔撃ち』は、私のもっとも好きな作品です。/獣たちの住まう森に囲まれた谷と灰色の共同墓地。飛びたつ鳥。明方の薔薇色に輝く空と骨色に白む夜。この架空の地図のなかで、人々を襲う死。そして、果敢に試みられる少年たちの脱走。戦争の遠いこだま〉】/


◯デヴリム・チェティン・ギュヴェン「『われらの時代』における「世界文学」の「脱文脈化」と「南」の「地図作成」ーーローレンス『チャタレイ夫人の戀人』の受容を中心に」:

【大江は(略)恩師渡辺一夫教授の勧めに従い、三年にわたって一人の作家の作品全体や当の作家を対象にするあらゆる研究書を集中的に読み、それを自作の物語内容や物語言説の多様化のうえで活用するという「小説の方法」を採用した。こうした、読書行為と創作行為を相互に接近させるダイナミズムを孕んだ方法は、大江文学の独自性の源流の一つとなった。本評論では、この独自な「小説の方法」を仮に「集中精読法」と呼ぶことにする。】/

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