J-P・サルトル『言葉』(澤田 直 訳/人文書院)

サルトルが自身の誕生から十二歳までを描いた自伝的フィクション。
サルトルは安部公房と並んで僕の青春の書だ。2006年に出版された新訳である本書は、昔読んだサルトル全集版の『言葉』に比べると、活字がずっと大きくなっていて、読み心地は快適そのものだ。/


【人生が始まったとき、私のまわりには本があった。おそらく終わるときも同じだろう。祖父の仕事部屋には本がいたるところにあった。ふだんは埃を払うことは禁じられていて、年に一度、新学期の始まる十月の前にだけ掃除された。私はまだ文字を読むことができなかったが、すでに本というものを、この聳える石たちを崇めていた。屹立したり、傾いだり、書架の棚に煉瓦のようにぎっしりと並んだり、メンヒルの立つ小道のようにゆったりと置かれていたこれらの本に我が家の名声がかかっていることを私は感じていた。】/


サルトルは、生後まもなく父を亡くし、母とともに実家であるシュヴァイツァー家に引き取られている。/

【いずれにしろ、妹がいたら近親相姦の関係になっていたかもしれない。そんな夢想をしたものだ。転移行動だろうか。禁じられた感情のカモフラージュだろうか。ありえることだ。私には姉がいたが、それは母だった。妹だったらよいのにと私は思っていた。今日(略)でも兄妹という関係だけが私の心を揺さぶる。*このいなかった妹を女性のうちに求めるという間違いを私はしばしば犯した。】/

【*原註 十歳頃、私は『大西洋航路の乗客たち』を読んで陶然とした。アメリカ人の少年とその姉が、とても純真無垢な様子で描かれていた。私は、その少年に同一化し、彼を通して、少女ビディーを愛した。私にとって、身寄りがなく、ほのかに近親相姦的な関係にある姉弟についての物語を書くことは、長いこと夢であった。私の作品のなかにこのようなファンタスムの痕跡を見出すことができよう。『蝿』のオレストとエレクトル、『自由への道』のボリスとイヴィッチ、『アルトナの幽閉者』のフランツとレニなどだ。(略)このような近親関係において私を惹きつけるのは、愛の誘惑よりは、むしろ愛の交わりの禁忌である。炎と氷、快楽と欲求不満がない交ぜになった近親相姦はプラトニックであるかぎりにおいて、私の気に入っていた。】/

この部分に僕は強く興味を惹かれたが、訳者の澤田先生は、「『言葉』フィクションとしての自伝ーー訳者解説」で次のように戒めている。

【しかし、このような親子関係があったからサルトルはこんな作品を書いたのだ、などという還元主義的説明を行ったりするのは、サルトルの仕掛けた罠にまんまとはまってしまうことだろう。(略)
私たちは『言葉』をサルトル解釈の手段や物証としてはなるまい。『言葉』は明確な意図に基づいたひとつの虚構なのだ。】/

澤田先生は、さらに、サルトル自身の言葉を紹介している。

【「『言葉』は『嘔吐』や『自由への道』以上に真実なわけではないと思う。しかし、語られていることが真実ではないということではない。『言葉』というのも一種の小説だ。私が勝手に考えている小説。それでもやはり小説といえる小説なのだ。」】/

ところが、澤田先生の禁にも関わらずこれがけっこう難しくて、僕などは、ハハ〜ン、だからサルトルは母に似て長身のボーヴォワールを生涯の伴侶に選んだのかなどと、直ぐに納得してしまいそうになる。
だが、作者自身が自ら書いた虚構を信じて、しだいにそれを生きるようになるということもあるのではないだろうか?
フリをすることと、そうであることの違いはどこにあるのだろうか?/


【こうして私は自分の宗教を見つけた。一冊の本よりも大切なものがあるとは私には思われなかった。書斎を神殿と見なした。司祭の孫であった私は、世界の屋根の上で、七階の部屋で、〈中心樹(セントラル・ツリー)〉の最も高い梢にとまって暮らしていた。

ー中略ー

私の象徴的な七階に辿り着くと、私は文芸の希薄な空気を再び吸い込む。事物に名を与えること、それは事物を創造し、かつ、我が物にすることだ、と私は思っていた。この根元的な幻想に囚われていなかったなら、私はけっして物書きにならなかっただろう。

ー中略ー

様々な〈事物〉の空中の幻像(シミュラークル)の間で、エーテルのただ中で生きたかったのだ。】/


【私は少しずつ自分のことが分かってきた。私はほとんど何ものでもなかった。せいぜい内容のない活動であって、それ以上である必要もなかった。(略)嘘つきは、嘘を作り上げることのうちに自らの真実を見いだしたのだ。私はエクリチュールから生まれた。書き始めるまでは、鏡の戯れしかなかった。最初の小説を書き始めるや、子どもは鏡の宮殿に迷いこんだことを知ったのだ。書くことによって存在し、大人たちから逃れられた。しかし、私は書くためにしか存在しなかったのであり、「私」と言った場合は「書き手としての私」という意味だった。】/

この部分、「書くこと」を「読むこと」と置き換えることができるだろうか?
「読むことによって存在する」ということが可能だろうか?
「読むためにしか存在しない存在」というものがあり得るだろうか?

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