ヨルシカ「アルジャーノン」を聴いて、ダニエル・キイス『アルジャーノンに花束を』を読む
スーパーの青果コーナーで立ち止まって音楽に耳を傾ける
最近、気になっている音楽がある。透明感のある女性が歌うどこか寂しそうな歌。その歌は行きつけのスーパーで聴くことができる。気づいたのは、1週間ほど前か。青果コーナーで白菜の山とにらめっこをしていた私は、しばらく呆けたように白菜を片手に音楽に耳を傾けた。何がいいとはっきりと言葉にできないが、すごくよかった。現実が波のようにスッと引いていき、静けさのなかでその音楽だけがすべてになる感覚。私の「好き」はそういう形をしていた。
運がいいとスーパーでその音楽を聴くことができる。おかげで週に3度で済んでた買い出しに最近は毎日出かけている。出費はかさむばかりだが、収穫もあった。その歌が流れる時間帯を掴んだのである。何度か聴くうちに次第に歌詞を聴き取る余裕も出てきた。諦念の果ての肯定。そんな印象を受ける歌詞だった。
回覧板から有益な情報を得ることもある
転機が訪れたのは数日前のことだった。隣家の佐藤さんとそのスーパーでバッタリと出会った。その時、ちょうどその歌が流れた。私は、失礼を詫びたうえで、身体を固めてジッと音楽に耳を傾ける。何せ、これを逃すと次にこの歌がかかるのが数時間後になる。佐藤婦人は、たいそう人間ができた人物である。私に合わせて静かに音楽を聴いてくれる。音楽が終わって早々、佐藤婦人は「この歌、知っているわ」と云った。引きこもりの息子さんが、毎晩風呂場で熱唱しているらしい。
男の子が、この歌を歌えるなんてすごいじゃないか。結構音程が高いと思うのだが。
「宮木さん、聞こえていなくてよかったわぁ。大丈夫かしらと思っていたのよ。あの子、本当にずっと歌っていて」
佐藤さんは安心したように笑った。私は、今度佐藤家側の窓を網戸にしておこうと思った。
佐藤さんは息子さんにこの歌のことを聞いてくれるという。私は、感謝を述べ足取り軽く(比喩である)帰路についた。
その翌日のことである。例に漏れず私はその日もスーパーへ足を運んでいた。帰宅すると、玄関に回覧板が立て掛けられていた。回覧板の表紙には事務的な青色の付箋が貼られていた。
少しひしゃげた字からは幼さを感じた。恐らく噂の息子さんが、私のために筆をとってくれたのだろう。優しい子だと思った。はじめて回覧板にありがたさを感じた。気になっていた歌の情報と、隣家の佐藤さんの息子が優しい心持ちであるという事実。回覧板から有益な情報を得ることもあるのだ。
アルジャーノン。まず、頭に浮かんだのは、ダニエル・キイスの『アルジャーノンに花束を』だ。小学校の頃だったか中学生の頃だったかは忘れたが、学級文庫のこじんまりとした棚に詰め込まれた本のなかにそれはあった。当時からそのタイトルは有名だった。ミーハー心で手に取って「なるほど、名作だ」と思った覚えがある。
ヨルシカの「アルジャーノン」の歌詞を反芻する。「パン」、「迷路」、「忘れる」、「変わっていく」、「崩れる塔」。あぁなるほど。『アルジャーノンに花束を』だ。
さっそく、佐藤婦人の息子さんに教えてもらったことを実行に移す。携帯電話を探し、動画の再生ボタンを押す。
そうだ、この歌だ。
私は、スーパーに通わなくてよくなった。
大人になってから『アルジャーノンに花束を』を読む
さて、私は何度も「アルジャーノン」を聞き返すことができるようになった。そうなると、どうなるか? ダニエル・キイスの『アルジャーノンに花束を』を読みたくなった。
列車を乗り継ぎ、街の大型書店に足を運んだところ、その本はあった。
文庫だからか、私の記憶のなかの表紙とは違っていた。
帯のあおり文に少し躊躇った。ひねくれ者だからだ。「えいや」の気持ちで、無人レジで会計を済ませた。
待ちきれずに帰りの列車で本を開いた。
それから5時間。あっという間だった。チャーリィと同じ時間を過ごした私は、うす暗くなった窓に向かって「ほぅ」と息を吐き出した。
やるせない。
仕方ない。
これは何なのだろう?
帯のあおりをが目に入る。泣けるだろうか。泣ける気はする。だけど、チャーリィは自分とは離れすぎている。泣くときのような激しさとはかけ離れた凪いだ心で、この本の凄まじさを感じていていた。
『アルジャーノンに花束を』のあらすじはこんな感じだ。
あらすじ
「ぼくわかしこくなりたい」
主人公は、知的障害がある青年チャーリィ・ゴードン。彼は、大学の先生たちから「頭がよくなる手術」を受ける。本書は、その手術を施した先生たちに向けた「経過報告」の形で進んでいく。
チャーリィと同じ手術を受け、知能が上がったネズミのアルジャーノンとの迷路の競争に負けっぱなしのチャーリィだったが、ついにアルジャーノンより早く迷路を解けるようになる。チャーリィの手術は成功だったのだ。チャーリィのIQは次第に上がり、ついには普通の人々より頭がよくなった。頭がよくなったチャーリィは、今まで自分が友達だと信じていた人たちが、自分のことを馬鹿にしていたこと、自分が蔑まれていたことに気づく。また、今まで分からなかった自身の過去と向き合うことにもなる。「ぼくわかしこくなりたい」。漠然とずっとそう思って生きたのは、忘れてしまっていた母親が自分にそう望んでいたからだとチャーリィは知った。
とうとう、チャーリィは、自分に「頭がよくなる手術」をした先生たちより賢くなった。しかし、自分と同じ手術を受けた天才ねずみアルジャーノンの異変によって、賢い彼は悟ってしまう。手術には問題があった、と。自分はそう遠くない未来に、元の自分よりも知能が落ちてしまうだろう。
世界にたった1匹の天才ねずみは、発狂ののちある日小さい塊へと変わってしまった。
落ちていく知能に抗うため、チャーリィは勉強を続けた。このまま自分が予測した通りになったら連れて行かれるであろう障がい者施設に足を運び、障がい者の立場を彼は知った。自身を捨てた両親と妹にも会いに行った。しかし、チャーリィの努力も虚しく、彼の知力は枯れていく。
知力が衰えたチャーリィは、自らの足で障がい者収容施設へ向かう。チャーリィは、最後にこう締めくくる。
あらすじを書いて思った。私の感じた凄まじさは話の筋だけではないのだ。この小説の細部に渡る工夫。登場人物たちの屈折したところ。幼い眼差しで、善悪を見極めて果敢に立ち向かおうにも敗れるチャーリィの幼さや普遍性。そういった描写が、彼等を生きている人にしているのである。
ここがすごいぞ(好きだぞ)! 『アルジャーノンに花束を』
経過報告という書き方
あらすじにもサラッと書いたが、この小説はチャーリィに手術をした先生たちがチャーリィに書かせた「経過報告」の形をとっている。つまり、チャーリィの手記である。そのため、物語の冒頭は、大変読みにくい。まず、彼が書いたのは「経過報告」ではなく、「けえかほおこく」である。所々、音として聞こえる言葉をそのまま文字にしている。話だってしっちゃかめっちゃかだ。枝分かれしたかと思うと、すぐに行き止まりに当たる。
何より一番衝撃だったのは、文章に句読点が一切なかった。読めるけど、あまり頭に入ってこない。そんな文章がしばらく続く。
手術後の「経過報告7」では、「けえかほおこく」は「経過報告」へと変わったものの、相変わらず、「ぼくわ〇〇」という調子である。
革命が起きたのは、「経過報告9 四月六日」のことだった。
なんと、チャーリィが、「,」の概念を知った!
たった2日で句読点をものにしたチャーリィのおかげで、物語は今までのじれったさが嘘のようにスイスイと読めるようになり、世界も明瞭になった。まるで、チャーリィの眼差しそのもののように。私たちは、チャーリィの視界と知能で理解できたり感じることができる範囲でしか、物語を追うことはできない。そのため、おのずとチャーリィの変化を疑似体験できるのである。
広がり鮮明になった世界は、絶頂を迎え急速に失われる。
その過程と喪失感は、書かれている内容以上に、「文章」で伝わってくる。
あぁ、彼はこのまま失われてしまうのだ。
十月十日の手記でまずそれを感じた。内容は、彼の夜の徘徊についてだった。自分がどこに住んでいるのか思い出せず、警察に送ってもらうことになったことなど、チャーリィの衰えと苛立ちが綴られている。しかし、その内容以上に、書かれた文章に対して私は喪失感を抱いた。
これまで漢字で書かれていた「思った」が「おもった」へ変わり、「昨夜」は、「ゆうべ」へと変わった。警官は、「おまわりさん」である。そして、こう締められる。
文章が稚拙になっている。その変化は、徐々にはっきりとする。
十月一日の手記では、とうとうチャーリィから句読点が失われてしまう。
次の経過報告から日付に変化が現れる。「十一がつ2日」。チャーリィは、「月」が書けなくなってしまった。この日以降、なぜか日付だけが、アラビア数字表記へと変わる。
また、「十一がつ10日」の経過報告以降、促音が抜けることが増える。
「十一がつ11日」の経過報告で、とうとう助詞の「は」が「わ」に戻ってしまう。そして、文章を読むと明らかに描写力も失われている。
世界は急速にしぼんでいく。
「ついしん」まで読み終わると、自然と大きな溜息がでる。「経過報告」は、チャーリィが自分の状況を周りの人——ストラウス博士、ニーマー教授、知的障碍児や世界中の——私たちのために書き残したものだ。そういう形式がとられている。だから、私たちは、チャーリィの存在をよりリアルに感じられる。その上、小説の外側である文章でチャーリィの変化を表現している。
すごい。
ただ、小説が面白いのではない。この小説の「形」そのものが作品である。小説は、こんな表現もできるのか。これは、映画や漫画にはできない小説だからこその表現である。
大変恐縮でありながら1点云いたいことがある。作者の名前を「ダニエル・キイス」ではなく、「チャーリィ・ゴードン」にした方がよかったのではないだろうか。画竜点睛ということだろうか。たしかに、もし、作者が「チャーリィ・ゴードン」だったら、彼を探しにウォレンへ向かう人が出てきてしまうだろう。
的確過ぎるプラトンの引用
『アルジャーノンに花束を』では、冒頭でプラトンの『国家』を引用している。
私を含む真面目な読書家は、物語を読み始める前にこの引用を読むことになるだろう。
これは私の教養の問題かもしれないが、こういった引用って何が言いたいのかよくわからない。「それで、えーと。どういうことでしょうか?」と聞き返したくなってしまう。今回の引用に対しても例に漏れず首をかしげた。うまいこと云っているとは思うが、それで?
しかし、チャーリィの「経過報告」を読み進めるうちにだんだんとこの引用が効いてくる。
チャーリィの顛末はプラトンの『国家』をなぞっている。
プラトンの「洞窟の比喩」を簡単に説明すると、手足を縛られ、壁を向かせられた囚人たちが、洞窟の壁に映った影絵を現実だと思い込んでいる。一人の囚人が、縄を切られ、洞窟の外にでる。洞窟の外の明るい現実(プラトン的にはイデア)を知った囚人は、洞窟に戻って他の囚人に洞窟の外の世界を説明するが、狂人だと思われて殺される。という内容だ。
チャーリィは、縄を切られた囚人であった。彼は、洞窟から出てそして洞窟に戻った囚人である。
私たちはチャーリィの軌跡を知っている。だからこそ忘却していく彼に対し激しい悔しさと悲しみを覚える。
明るい場所を知ったことは、チャーリィにとって幸せだったのだろうか。結局、彼は影絵の世界だけを見て過ごすことになる。彼の努力や経験は、跡に残らない。残ったのは私たちが今読んでいる「経過報告」と、チャーリィは既に読むことができない論文だけだ。チャーリィには何も残らない。
性格が悪いと思う。こんな的確な引用をして。いやプラトンの『国家』からこの作品はできたのか? 作者の頭の良さと知見の広さと、容赦のなさに脱帽である。
チャーリィの母親と父親から考える「平等」と「区別」
私がこの小説で特に考えさせられたのがチャーリィの母親と父親である。チャーリィの母親を一言で表現をすると、チャーリィを虐待したうえで捨てた母親である。しかし、チャーリィを最後まで障害児にしなかったのもこの母親である。彼女は、チャーリィが、「普通」であることを最後まであきらめなかった。反して、父親はチャーリィは知的障碍児だから他の子どもたちと同じように過ごすことは難しいと判断した。夫婦は、チャーリィのことでしばしば口論し離婚してしまう。
チャーリィの母親は、チャーリィが普通の子のようになると信じて治療に多額の金を支払い、苦労を厭わない。しかし、チャーリィは「普通」にはなれない。彼女のしつけ、彼女の怒声は、チャーリィを苦しめる。
母親よ。早く折れてくれ。
読んでいるとそう願わずにはいられない。感情的な母親に反して、チャーリィを普通の子と区別して接する父親のことを理知的だと思う。
しかし、最後まで読み終わると、私はわからなくなってしまった。チャーリィがウォレンへ行くことを決意した理由が、キニアン先生をはじめ周りの人に「かわいそう」と思われたくなかったからだ。
この物語の登場人物のなかで、おそらく唯一チャーリィを「かわいそう」にしなかった人物はこの母親だろう。母親が原因でチャーリィは惨めな思いをしたかもしれないが、母親はチャーリィを「かわいそう」にはしなかった。
知能が下降していくなか、チャーリィは母親に会いに行く。賢くなった彼を抱きしめて母親は泣いて喜ぶ。
「ぼくわかしこくなりたい」
チャーリィのその願いは母親の願いだった。チャーリィの努力や苦悩も母親に褒められたい。ただれだけだった。それは、母親に捨てられて、母親の存在も願いも忘れても彼の心に住み続けた。
そして、彼は母親の自慢の息子になって報われた。
私から見ると、この母親はチャーリィにひどいことをする親だ。しかしチャーリィにとってはどうだったのだろうか?
平等に接する。区別して接する。たぶん、この割り切れない感情の正体は、この二つに横たわる正しさだ。
擦り切れるほど議論されてきた課題だ。今回、この物語を読んで改めて私にはまだわからないと思った。
本を閉じてヨルシカの「アルジャーノン」を聴く
キャプションに歌詞が書いてあるので、ぜひ読みながら聴いてみてほしい。やはりいい歌だ。好きな歌だと改めて感じた。
冒頭にも述べたが、「パン」や「迷路」など『アルジャーノンに花束を』の要素が随所にみられる。個人的に、「少しずつ膨らむパン」と変化を結びつける歌詞がすごくセンスを感じられて好きだ。多くの人がそうなのかもしれないが、私は「たしかに」と口に出したくなるような発見を感じる歌詞や小説がツボにハマる傾向にある。
さて、この歌詞を読んでいくつか気になるところがあった。歌詞に出てくる「貴方」、「僕」、「僕ら」とはいったい誰なのだろうか?
というのも、この歌詞の端々で言葉の使われ方に対して引っかかりを感じる。例えば「ゆっくりと走っていく」。普通に考えると、「ゆっくりと」の後ろにくるのは「歩く」ではないだろうか? しかし、「歩く」という動詞が一般的に遣われない生き物もいる。たとえば、ネズミとか?
そう考えると、歌詞に『アルジャーノンに花束を』の登場人物を投影させて解釈をしてみたくなる。ただ、これをし始めると、大変な文量になってしまうことがわかったので触れずにおく(一度すべての小節の「貴方」、「僕」、「僕ら」と視点について考えたら恐ろしく骨が折れた)。
歌詞と『アルジャーノンに花束を』の流れから、歌詞に出てくる「大きな木」は、知恵や知能が上がって発生したチャーリィの人格の隠喩だと思う。だから、1小節目では「長い迷路の先も恐れないままで」だったものが、「長い迷路の先を恐れないように」へ変わったのではないだろうか。知能が低い頃、チャーリィは恐れを知らなかった。チャーリィが未来に恐れを抱き始めたのは知能が上がってからだ。
『アルジャーノンに花束を』では、知能が上がったチャーリィの人格は、知能の低下とともに消失してしまう。しかし、ヨルシカの「アルジャーノン」では、忘却と崩壊の小節の後に、「育っていく木陰」を出し、「貴方はゆっくりと走っていく 長い迷路の先も恐れないままで 確かに迷いながら」とこの歌を締めくくっている。私は、その最後の小節は、ウォレンへ向かったチャーリィへの祈りではないかと思う。
知能が高かった頃のチャーリィもチャーリィのなかに存在してほしい。
そして、ウォレンへ行ったチャーリィは、再び「ぼくわかしこくなりたい」と願いながら歩みを止めずに前に進んでほしい、と。
どうしてそう思ったかというと、私もそう願ったからかもしれないが。
書き終えて
まさか、ここまでの文量になるとは思わなかった。これも、『アルジャーノンに花束を』と「アルジャーノン」が大変よかったからだ。そうでないとここまで熱量を保っていられない。
今度、佐藤婦人に『アルジャーノンに花束を』を渡してみようかと思う。メモのお礼だ。窓をあける。くぐもってはいたが歌声が聞こえた。