日本古代史のおさらい① 奴国王から5世紀まで
歴史雑記150
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※ヘッダ画像は室宮山古墳出土家形埴輪。筆者撮影。
はじめに
今回は備忘録も兼ねて、日本古代史のなかでも倭国が歴史史料に登場し、人物の実在性がはっきりするまでの時期(5世紀の終わり頃まで)についてまとめておく。
要するに、「ここまではわかっている/この辺からはあやふやだ」というのを、整理しておこうというわけである。
時代区分で言えば、弥生時代から古墳時代ということになるが、この時期の政治史を研究するためには文字史料(歴史学)、考古遺物(考古学)、金石文(両方で使える)をかけ合わせる必要がある。ただし、それぞれの史料の特質や方法論を踏まえないと容易に「独自研究(トンデモ)」に陥ってしまう。
この記事では、そういう変なことは排してあるので、逆にこれから述べることを根拠なく否定する説はトンデモだと思っていただいてもよい。逆に、この記事に書いてあることが変だと思う人は、ご自身が変な可能性がある。
というわけで前置きが長くなったがはじめよう。
史料に見える3世紀までの倭国
他国から「倭国」と称されていた時代のわが国で、最初に歴史史料で実在が確かめられるのが、建武中元二年(57年)に光武帝から金印をもらった奴国王である。残念ながら彼の名はわからない。
その次は、永初元年(107年)に安帝に朝貢した倭国王帥升で、そのあとは倭国大乱で少し飛んで景初二年(238年)の卑弥呼による遣使となり、難升米以下、数人の名前が見える。
卑弥呼は正始八年(247年)から程なく亡くなり、その後は壱与が立つ。西晋の泰始二年(266年)に壱与の使者と思しき使節が入朝しているが、もしかしたらもう壱与ではないかもしれない。
ともあれ、倭国で中国王朝に対し、最初に継続的な遣使を行ったのは卑弥呼ということになる。おかげで、魏志倭人伝というまとまった文字記録が残されることになった。
さて、泰始二年のあと、しばらく倭国は中国の伝世文献に遣使記事が見えなくなる。いわゆる「空白の4世紀」であり、3世紀の邪馬台国関連の記述が突出してしまうという状況が、わが国の古代史研究にひとつの困難をもたらしている(継続的に推移を追うことが困難である)。
考古学上の画期・前方後円墳の出現
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