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たまたま心を病んだだけ
毎日、死にたいと思う。ただその一方で、生き急いでいるなあと思うのも事実。だから、本当はきっと死にたいわけではない。
それでも。
生まれたくなかった。何で私を生んだのと、両親を問い詰めたい衝動に毎日駆られる。でも日々何とか理性で抑え込んで、耐える。
だって私は、ニュースで報道されるような、悲痛な虐待を受けた訳ではない。PTSDも性的虐待も心理的虐待も、受けていないのに。
それなのにこんな私が、どうしてそんなふうに思ってしまうのだろうと、そんな風に思う自分に日々、嫌気が差す。
いや私も傷付いたんだろうな。
それを過小評価しているだけ。
私は幼少期、家族内のいざこざを、面前で見せつけられた。高校生の時、危うく父親が無銭飲食で警察沙汰一歩手前になった。両輪が離婚するんじゃないか、と五年間くらい囚われ続けた。実際逮捕も離婚もなく、穏やかな今が在るんだから。
学生生活だってそうだ。小学生でいじめられた。でも先生と親が守ってくれた。中学生ではいじめられなかった。なのに人間関係に疲れて病んだ。
それから担任も病んだ。担任が病むのを面前で見せつけられたあの時代が、正直いちばんしんどかった。三年間同じ担任だったのは珍しかった。
私は担任の片腕的な存在だった。私は担任から人一倍、信頼もされていて、その頼み事も引き受けて。でも今思えば、ただの生徒一人に、そんな重荷を背負わせるのはおかしいんじゃないか、と思う。クラスメイトの情緒的なケアや日常生活のケアをしながら、私は日々の勉強と部活をするしかなかった。
私の弱さは当時、大人や周りに「助けて」を発せなかったことだ。もし発せていたら、私の心の奥が、こんなにも深く、傷付くことはなかったかもしれない。人を信じられなかったのも私の弱さ。
何が私の精神疾患を引き起こしたのか、正直未だに分からない。当時の状況と私個人の性格や物事の解釈、捉え方、その相互作用が複雑に関係し合って今の私があるんだとしたら、私だけが悪いのでも、完全に周りの所為でもない。
だって、同じ状況にいても病んでいない人だっているんだと思うし、数年経ってみんながみんな、精神疾患になっているわけじゃないと、私は思うから。今はそんな時期、を繰り返しているなと私は思う。いいんじゃないか別に、それで。
たまたま私は何か、精神疾患を持ったけど。でも別に、だから何?いいじゃん。何も特別なことじゃない。身体病む人もいれば知的に遅れがある人もいるでしょ。障害とみなされない人もいる。その中で私は、たまたま心を病んだだけ。そう本当にたまたま。
あれだけ馬鹿みたいに4年間福祉勉強して、私は何を学んできたんだろう。大学時代に関わった人達にこんなんじゃあ、顔向けできない。
総括。私が家族を愛せないのはきっと、自分を愛せていないからだと解っている。家族に死にたいを言わないのはきっと、家族は血縁はあっても、れっきとした他人だと割り切っているから。
それと多分、根本的ところで私は、家族を信じていない。そのくせ、親から受ける愛が重いとか思うのがもう、矛盾の塊。
まあでも、今はそんな時期、なのだとしたらこの日々もいつか、そんなこともあったねと、笑い飛ばせる日がくるのだろうか。
読んでくださってありがとうございます。