アーユルヴェーダのトリートメントを受けること
4月最後の日、アーユルヴェーダのトリートメントを受けに atelier asha 211 へ。待ちわびた瞬間だったと分かるのは北アルプスに帰ってから。
過ごした時間を忘れないように、とことばにしようとしては手を止める。繰り返し止まる手が、どれほど待ちわびていたのかひっそりと伝えてくる。こうして何かが立ち現われる瞬間をじっと待つのは、アーユルヴェーダのトリートメントを受ける時間に本当によく似ている。
木々を包み込むように佇むアパートメントには静かな集中力が漂い、すぐ横の保育園から聞こえる園児の元気な声がきらめきを増すほど。夏に近づいてゆく空気に間延びして響く声をBGMにカウンセリングという名の近況報告を経て、持ち主のライフスタイルに振り回される体のそれはもう率直なコメントが出てくる脈診。一連の流れを元にトリートメントの内容が決まり、今回は増悪していたピッタ(ラジャス)を出してゆく方向性に。最後にまぶたを開いた瞬間、いつも新しい朝を迎える。
アーユルヴェーダのトリートメントは一時的に崩れたドーシャバランスを整えてくれる。整ってゆくのはトリートメントを受ける人の生命力を一緒に覗き込むから。ひとつの知の体系に組み込まれているそうした感性が響いて、ここに流れ着いた。ピッタを増悪させてでも見てみたい景色が何なのか、原動力となる生命力にどう形を与えてゆくのか。生命力は誰のものでもないけれど、舵をとる人が誰なのかはいつも明確に決まっている。
ことばはいつも語り落とす。
だから半年後、10年後に訪れた時の自分のあり方やまなざしが、過ごした時間がどのようなものだったのか、相手に語り直し差し出すことになるのだろう。それにしても随分とおおらかなタイムスパンでの返礼になってしまうなあと戸惑いつつ笑いながら北アルプスで春を迎える。純粋な好奇心とともに。
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