今でこそ オーバードーズという言葉を知っていますが (トー横、グリ下という名前とともに) その頃はまだ、あまり耳にすることが ありませんでした。 初めてオーバードーズの記事を目にした時 記事の中に「パキる」という俗語表現があり それが娘の服用しているパキシルが語源となって いることに愕然としました。 もちろん使い方で 効く人には効く薬だと 信頼する医師も仰っていましたし パキシル自体を否定するつもりはありません。 要は服用する量で パキシルだろうが何だろうが オーバー
減薬していきましょう そう主治医から言われた時に もちろん意味はわかりました。 文字通り 薬を減らすこと… でも私はその言葉から想像出来ることを 頭に巡らせただけで 本当の意味をわかっていませんでした。 風邪薬や胃腸薬を服用する時のように 症状が改善したら服用やめる そんな簡単なものではないことは なんとなくわかっていたけど… 減薬を始めるに当たって 先ず最初に覚えた言葉が 「離脱症状」 離脱症状とは 薬が身体から急になくなることで起きる症状 薬を減らしてから1~
先述のとおり 娘は最初の薬を服用して 立っているのがやっとの状態となり 予約していた心療内科で その薬では強すぎると コレミナールを1日3回 パキシルを1日1回 頓服としてロラゼパムが処方されました。 違う症状まで現れてきて 3週間後には パキシルからパキシルCR12.5を1日2錠 頓服だったロラゼパムが1日3回に… 頓服が常服になることに 私は不安しかありませんでした。 そして、てんかんの疑いは ないだろうとしながらも その2週間後には 脳の痙攣をおさえるものとして
お薬は例えるなら「杖」として使うもの 情報を集めていた頃に そんな言葉を見た記憶があります。 何気なく通り過ぎたその言葉が 今、とても理解出来る気がします。 杖は体を支えてくれる道具ですから それが大きな支えとなり 歩けたり、立っていられますが その杖の長さが全く身体に合って いないとしたら… 娘を手探りでサポートしていく中で 薬の量が増え、種類も増えて 娘が娘じゃなくなり どんどん変わってゆく様を 見てきました。 どうして私はもっと早く 気づけなかったのだろうか い
少し前までテレビをつけると 歌舞伎役者さんの報道をよく見かけました。 私は目にするたび 気持ちがザワザワして つけたばかりのテレビを消しました。 「向精神薬」 このワードを見聞きすると 気持ちが波立ちます。 娘にも処方されている頃 減薬、断薬に支配されていた日々が 思い出されるからです。 これまで薬に関しては あまり深く記述をしていませんでした。 いろんな気持ちが交差して 纏まらなかったのです。 今も纏まってはいませんが 自分の言葉で伝えられることがあるかも…
先日、YouTubeを自動再生にしていたら Official髭男dismの『Subtitle』が流れてきて 久しぶりにじっくり聴いたら 涙が溢れてきました ドラマsilentの主題歌であることは あまりにも有名で 私も毎週涙しながら観ていた 視聴者の一人ですが 溢れた涙はドラマとは一切関係なく この曲の歌詞が サポートしていた頃の自分に あまりにも似ていて 歌詞を聞き入ってしまうと あの頃、毎日必死だった自分と重なり 泣けてきたのです どれだけたくさんの言葉を 娘に
家族が同じサポートを出来るわけではない もちろんそれは当たり前で 主で動いている私も頭ではわかっていました それでも間近で常に直球を受ける私と 時々目にしたり話を聞く家族では 温度差があり過ぎて すべてを共有出来るわけではない サポートはワンオペという孤独感が いつも拭えずにいました 娘の不調が回復まで時間がかかり なかなかすぐに帰宅出来ない日が続きました 毎日いつ帰れるかわからないから 仕事を終え、夕飯を作り 急いで娘を迎えに行く日々 ある日、段取り悪く 夕飯が
先日、娘が高校を卒業しました。 無事、この日を迎えられたことは 娘にとっても私にとっても当たり前ではなくて たくさんの方々の支えがあってこそ… 本当に特別な想いが溢れた卒業式でした。 今は専門知識を身につけるため 専門学校に入学し忙しくしています。 まるで何もなかったかのようです。 いや、本当に覚えていないことが たくさんあるようなのです。 だからと言って 元気になって忙しくしている娘に 思い出して!とは思いませんし 私も思い出せない事が多いのは 先述のとおりです
娘についた病名は パニック障害ではなく 適応障害による身体表現性障害 正直、全くピンと来なくて 何も変わらないということを 改めて思い知らされた気持ちでしか ありませんでした。 意識を取り戻し 落ち着いた娘に先生が 丁寧に病名や治療の話をしてくれました。 その頃 当てはまる症状から病名を検索しては 死ぬ病気かもしれないと 本気で泣いていた娘にとって 先生から聞く病名は 私とは真反対の受け取り方だったようです。 「お母さん!私、適応障害だったんや」 受診帰り、どことな
時系列には書いていけそうもないので 思い出せた出来事を書いて行こうと思います。 総合病院の小児科に通院し始めて しばらくはさまざまな検査をしてもらいました。 主治医の先生はいろんな角度から 不調の原因を診ようとしてくれて 少しでも可能性のある体の疾患を 一つ一つ調べていき検査が終わりました。 「少しでも可能性のある疾患の 検査をいくつかしてみましたが 少し貧血がある以外に悪いところは 特に見当たりませんでした」 私はその結果を聞いても やっぱり、そうなんだな…と受け入
続けて読んでくださってる方には ずいぶん間が空いてしまいました。 このnoteはちょうど一年前の出来事を 書き進めていたのですが 途中、思い出せなくなったことが多くなって 一年以上前の記録になりつつあります。 何年も前の出来事ではないし 私自身、あんなに毎日大変で 忘れたくても忘れられないような日々を 忘れている自分に驚きと心配で 少し調べてみようと思いました。 検索していくうちに 解離性健忘の記事にたどり着きました。 「耐えきれないつらい体験を受けているとき いつも
サポートの疲労から 相談室の予約をした私 予約の時間になり 名前を呼んでくれたその方は 若くて可愛らしい臨床心理士さんでした。 奥の部屋に案内され 一時間の相談が始まりました。 私は自分の辛さを吐き出したくて ここに来たはずですが 気付けば40分くらい 娘のこれまでの経過を伝えていました。 それに気づいたのは心理士さんが 「ご自身のお体や心は大丈夫ですか?」 そう言ってくれてからでした。 「…ちょっと大丈夫じゃないかなって」 なんでちょっとなんて言ってしまうのか
私が相談室の扉を開けようとした頃 やっと娘の脳波検査がありました。 脳波検査が終わる頃に 看護師さんがもうすぐ終わりますと 声かけしてくれましたが しばらくしても娘は出てきません。 また調子が悪くなったのかな… この頃の私は 心配と諦めを同じだけ持っていました。 声かけしてくれた看護師さんが 再び来てくれ 「すみません…検査は終わったんですが 足が痺れて起き上がれないみたいです もう少しお待ちください」 「そうですか。すみません…」 これが終わったら脳外科… それか
心身ともに絶不調ながらも 一日も休むことなく 学校、部活にいく娘 だから毎日いつ連絡が来ても おかしくない状態 娘と一緒にいる時は負の気持ちを すべてぶつけられ 離れている時は心配でたまらず 結果… 私に気の休まる時間はありませんでした。 いつ救急搬送を言われても 対応出来るように 常に娘の保険証と、お薬手帳を持ち いつ学校から連絡が来ても 対応出来るように 仕事中も携帯を持っていました。 私も生身の人間です。 待ったなし、終わりの見えないサポート 良くならない娘に、
私はこの頃、本やネットで 娘が処方されている薬に関する情報を 色々調べていました。 パニック障害は薬なしで治ると 書かれた本にも どの記述を目にする時も 服用している薬は 自己判断で中止してはいけません この言葉が書いてありました。 減薬断薬については様々な書き方が ありましたが 医師が細かく指導してくれるわけではなく 自分でするのが主流のようです。 現に今回、服薬が短いのから抜きましょうと 次回の処方をしない一気抜きです。 今思えば、医師からすると 一気抜き
小児科の先生は 採血後、点滴の処置をされて 私に話をしました。 「私は今の処方されてる薬は 全部必要ないと思ってます。 今回、娘さんに処方するのは そんな強い薬ではありません。 最終はこの薬だけで私はいいと思います。 とりあえず、一番服用期間の短いものから 減薬して、この薬を始めて様子をみます」 私は必要のないと言われてる方の 薬の多さと、減薬というまた新たな 未知の扉を開ける不安を 改めて感じながら 診察室を後にしました。 総合病院の会計を待ちながら 処方された新し