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水玉消防団ヒストリー第14回 1983-1984年「筋美連通信」、天鼓NYソロデビュー

取材・文◎吉岡洋美
 
 ‘81年5月末にJORAは閉店したものの、水玉消防団はパンク、ニューウェイヴシーンのなかで安定した知名度を誇るようになっていた。ますますライブ・オファーは増え、JORAなきあとは「当時、貸しスタジオのなかでも一番安くて、ほとんどのパンクバンドがそこで練習してたはず」(カムラ)という、大久保のスタジオ・テレコムに練習場を移していた。5人で、毎日のように集まって音出しするのは相変わらずだが、スタジオでは天鼓がメンバーを引っ張っていくようになる。
カムラ「天鼓は私と違ってあまりロックや音楽のファンってわけじゃないけど、ちょっと天才的なところがあるというか、勘がいい。メンバーのなかで一番エネルギーもあるし、『ここはこうしたほうがいい』とメンバーを引っ張って、ピリッとするときもあったけれど、だから曲が曲になったとも言える」
天鼓「天才的? 力技ってことでしょ(笑)。当時、何かの取材で『リハを撮ってもいいですか?』と言われて、スタジオで皆で曲を作ってるとき、撮影が入ったことがあったのね。内心“大丈夫かな?”とは思いながら、曲作りのとき私は集中してしまうので周りが目に入らなくなるんですよ。そのときも『そんなんじゃ、どうしようもないっ!』とか叫んでたら、メンバーは皆、いつものことで慣れてて何ともないんだけど、びっくりした取材クルーがビクビクしながら『ありがとうございました……』って後退りしてさりげなく去って行った。あはは(笑)」

水玉消防団の当時の練習風景。「水玉はとにかく、ものすごく練習してる。猛練習(笑)。だから、自ずとバンドの結束も強くて濃いつながりにはなる。テレコムに移ってからはスタジオ代がかかることもあって、JORA時代のジャム的なノリから、ギグのために意識的に曲を仕上げるようにもなっていった」(カムラ)


 
 独自でジャンルレスな存在感を確立し、当時のアンダーグラウンドシーンの曲者たちとのライブではすっかり常連になり、例えば、’82年5月の横浜国大や7月の「CHANGE2000」企画のライブでは共演に吉野大作&プロスティテュート、暗黒大陸じゃがたら、突然段ボール、コンクリーツ、ZELDA、ノンバンド等々の名が並ぶ。ともに黎明期から活躍したバンドは名実ともにシーンの代表的存在になり、そのなかに水玉消防団もいた。

〔上〕’82年5月29、30日の2日間、横浜国大で行われたパンク、ニューウェイヴ系ライブ・イベント。強面系バンドのなかに水玉消防団の名前も違和感なく並んでいる。〔下〕同年7月3日、「CHANGE2000」の主催イベント。シーン黎明期からのバンド名が連なる。



カムラ「ミーハーからバンドを始めた私たちが、まさかそんな風になるなんて思ってもみなかったよね。ちょっと面白そうだからバンドをやってみたら面白い人たちと出会って、それこそ日本だけじゃない人たちとも一緒にライブするようなことが起きていく。当初は全然予想だにしてなかった」
天鼓「多分、タイミングもよくて、パンクやニューウェイヴって、例えば“グラフィックデザイナーをやってるけどバンド始めました”とか、“イラストレーターやってたのに楽器弾いてます”とか、そんな人たちがどんどん出てきたでしょ? 必ずしも技術だけで評価されるときじゃなかった。そのことは水玉消防団というバンドにとって、ひとつ大きかったと思いますね。時代も味方してくれて、バブル期前だったし、フリーターの走りみたいな私たちを養ってくれるような余力が社会にあった。女性全体がそれ以前より仕事を持てるような経済的な変化もあって。それでもまだ“25歳までに結婚しなかったら売れ残り”なんて言われてたけどね。今の25歳が聞いたら大笑いするような話でしょ(笑)」
 

ファンジン「筋美連通信」創刊


 
 バンドが天鼓の言う「タイミングもよく」、「時代にも味方」され、‘80年代のシーンの顔にもなれば信奉者も生まれてくる。実に水玉消防団のファンクラブ「筋美連(きんびれん)」がファンの女性たちにより発足される。
天鼓「ファンクラブは知らないうちに勝手にそういうことになっていた(笑)。要するに、“外野も楽しむ”みたいな感じで出来上がったんですよね。“私が(ファンクラブ)1号だ”“私は2号だ”とか言って盛り上がってる人たちを見るのは楽しかった」
 ʼ83年、ファンクラブによるファンジン「筋美連通信」も刊行され、そこでは一人ひとりのメンバーにスポットを当てたインタビュー企画、バンドの地方ツアーも含むライブリポート等々が、きめ細かくユーモアも交えながら取材されている。当時、水玉消防団がいかに女性ファンにリスペクトされ、愛されていたかが伝わってくる。水玉消防団に誘発されてファンクラブのメンバーたちで作られた“筋美連バンド”なるバンドも生まれ、水玉消防団と一緒にライブを行ったこともあった。
カムラ「ファンクラブは確かに気づいたら出来てた、って感じだったんだけど、ミーハー的なパワーも含めて嬉しかったよね。作ってくれた人たちの熱意にほだされもした。私たちを支持してくれた女の人たちって皆、水玉消防団を見てバンドの歌詞、音楽がどうっていうより、何か強烈なダンプのような車が疾走していて、それに『感動した』『興奮した』って言うんだよね。あまりにもライブに興奮して舞台に駆け寄ったら転んで足をくじいた、って人もいた(笑)。言葉にもできないし、言いようもない。でも、興奮して前に出る。それはフェミニズムのひとつの形でもあったんだと思う」
天鼓「芸能事務所が宣伝用に作ったファンクラブなんかじゃない。熱狂的なファンが手作りでファン通信や会員証を作って遊んでた。時代的にも、私たちは女の人に元気になってほしいというのが凄くあったし、色んなところでライブすることで“こういうバンドもあるんだ”ということを知ってほしかった。そういうことが同じ女の人に届いたのなら、嬉しいことだよね」

‘83年から制作されたファンクラブ「筋美連」のファンジン。〔上〕創刊1号(左)、3号の 表紙。〔中・下〕各メンバーの特集やインタビュー、ライブリポート等々の記事が熱量高 く、詳細に記録されている。


 

天鼓、NYソロデビュー


 
 この頃、水玉消防団と同時に天鼓とカムラのハネムーンズも活動が活発化し、海外の即興音楽家たちとの共演が続いたのは前述したが、’83年に共演したフレッド・フリスと交流を得た天鼓は、翌’84年にNYを訪れた際、在NYのフリスのブッキングで、ヴォイス・パーフォーマーとしてライブし、ソロデビューすることになる。
天鼓「たまたまNYに遊びに行く話になって、フレッドに連絡したら『せっかくNYに来るんだから、やれば?』って、小さいライブハウスだけどブッキングしてくれたんです。向こうの人たちは大体そんな感じなんですね。で、その日、最初はフレッドと一緒にやって、そのあとは一人で楽器も何も持たずヴォイス・パフォーマンスした。そんなにすごく人が来てるわけじゃなかったし、友達の友達が観にくるようなライブ。ジョン(・ゾーン)も来てくれたんだけど、私のライブが実際、面白かったかどうかはあまり覚えてないんですよ。ジョンが着てた、お母さんの手編みだっていうセーターの柄が面白かったとか、変なことは覚えてるんだけど(笑)。というか、当時はいつも、自分を集中させることに精一杯で、まわりがどうだったかなんて余裕がない。でも、『ああ、ソロでもやれるんだ』とは感じましたよね。結局、演奏するということは、日本だろうが海外だろうが、どこでやろうが変わらない。ただ、初めて何も持たずにソロでマイク1本でステージに立ったときは、自分が裸で立っているような気持ちになった。声のみでステージに立つということは、楽器の演奏者とは全然違うのかもしれない。その感覚は今も変わらないですよね」

●TENKO Live '86 NYC CBGBs. 「艶消しの闇」

 
  記念すべきソロ、しかもNYデビューの感慨について「そんなのないない、全然。たまたまだったし(笑)」と笑う天鼓だが、これを皮切りにソロのヴォイス・パフォーマーとして海外のインプロヴァイザーとの共演、作品参加が続くことになる。翌’85年にドラマー、パーカッショニストでヴォイス・パフォーマーでもあるデヴィッド・モスのアルバム「DENSE BAND」にTENKOとして参加する。
天鼓「あれは、その後NYから日本に帰ったあと、フレッド(・フリス)から私の『ヴォイスを録って送ってくれ』と言われたの。彼はデヴィッド・モスのアルバムのプロデュースをしてたんですね。で、私たちの強力サポーターのサウンド・クラフトで声を録った8chのテープをフレッドに送って、彼がNYでアルバムの音源に乗せて出来上がった。だから、『DENSE BAND』のアルバムではデヴィッド・モスたちと一緒にレコーディング参加したわけじゃないんですよ。それもあって1〜2曲しか私の声は入ってないはず」

●DAVID MOSS「DENSE BAND」(’85年)

 
 ところが、ほどなくしてデヴィッド・モス、フレッド・フリスはじめ、「DENSE BAND」のバンドの一員としてパフォーマンスする日が訪れる。しかも、そこで“TENKO”はヨーロッパのフェスを震撼させることになるのだが、それは追って、後述する。
 

大手レコード会社からのオファー


 
 さて、この’84年、水玉消防団は風格さえも漂わせながら毎週毎月のように行われるライブを邁進し、インタビュー取材も「しょっちゅうあって、色んなことを書いてくれたりして(笑)」(天鼓)という状況は相変わらずな上、ファッションショーで天鼓やまなこは、なんとモデルとしてランウェイを歩き、パンクどころか“時代の先端”をもイメージさせる女性たちとして駆り出される。
 気付けば’78年の結成からバンドは約6年を超え、パンク、ニューウェイヴシーンにおいてはベテランの域。’84年12月に出演した反核音楽イベント「アトミック・カフェ・フェスティバル 冬の陣」の雑誌リポートでは「歴史ある ・・・・インディーズ女性グループ水玉消防団は、派手なメイク、ファッションで会場の注目を集めた」(『宝島』’85年3月号/傍点は筆者)とある。メンバーチェンジを重ねたり解散するバンドも多いなか、水玉消防団は結成のままのメンバーを持続していた。
天鼓「私たちは、音楽以前に“この5人でやっている”ということが、重要なことだった。練習ではそれぞれが出来ることを組み合わせていくことが曲作りになって、だから、誰も水玉消防団というバンド以外では演奏出来なかったと思う。だからこそ、他にはないバンドの特色が生まれたんだと思いますよね」
カムラ「確かにメンバー全員、自分のバンドでやってることしか出来ない(笑)。特に当時、スキル先行じゃないパンク、ニューウェイヴにはそういう人が多かったんじゃないかな。ちょうどその頃のおかしい話があって、あるプロデューサーが、私とチャンス・オペレーションのギターの(コミヤマ)ヨシコちゃんと、はにわオールスターズにも参加してたドラムのれいちの女性3人を集めて、“ユニットとしてレコーディングしてみないか”って声をかけてくれてたことがあったの。それぞれのギター、ベース、ドラムに興味を持ってくれたようで、組み合わせたら面白いことになると想像したと思うのよ。で、一度3人でスタジオに入ったんだけど何も出来ないわけ(笑)。れいちはドラムを叩きながら、全く違うリズムの歌も歌えちゃう天才肌の人で何でも出来るんだけど、私とヨシコちゃんはコードは弾けないし、他の人とどう音を作ったらいいかわからない。全然ダメだった。結局、プロデューサーに“失礼しましたっ!”って謝って帰ったことがある(笑)。それほど、よその組み合わせでは応用が効かないんですよ」
 
 そんな“よそでは応用が効かない”彼女たちに、大手レコード会社から『乙女の祈りはダッダッダッ!』に続くセカンドアルバムのオファーが持ちかけられていた。当時、シーンに名を馳せるバンドは、ちらほらとアルバムをメジャーリリースするようにもなっていた。水玉も同様にアプローチがあったわけだ。
天鼓「この頃になると結構、水玉も有名になってしまってて、大きな場所でやることも増えましたよね。それはそれで面白いことではあったんだけど、何ていうのかな、私たちはもともとバンドで有名になろう、ってのとはちょっと違うからね。そういうのが目標じゃなかったから。レコード会社からアルバムリリースの話が来たのは、その頃ですよね」
カムラ「1枚目のあと2枚目を出しましょう、って話だったのかな。でも、水玉はDIYで自主レーベルでやることに拘りもあった。だから、私たちはその話を蹴ったというか、お断りした形になったんだよね」
天鼓「可夜さんと私とで連絡があったレコード会社の人に会ってみたのね。水玉のアルバムを出したいという熱意は感じたけど、どんな風に売り出せるかは見当がつかないようだった。可愛いとか若いとか、ポップとか、およそ普通にイメージできる女子バンドから私たちは程遠いわけだしね。メンバー皆と『どうなんだろうねぇ』と言っているうちに、『連絡はしないでおこうか』みたいな感じで有耶無耶にしたんですよ。“水玉消防団はそういうのとは違うしなぁ”って気持ちも大きかったし、やっぱり、どう考えても私たちはメジャーでは上手くやっていけなかったと思う。だって、私なんかライブでも高飛車な音響PAと喧嘩することが何度もあるのに、大手のレコード会社とだったら、もっと色々なタイプの人がいて、色々なことがあるじゃない? それをニコニコしながら『あら、ごめんなさーい』なんてやれないもの。私たちは、あくまでも面白いことをやりたいのであって、“メジャーを目指して”“音楽で売れたい”というのが目的ではなかったし、そのうちレコード会社と揉めて喧嘩するのは目に見えていた」
 大手からのオファーに、そんな自分たちの姿が容易に想像つき、それも結局、「全ては私たちが女だったということに尽きる話なんだよね」と、天鼓は続ける。
天鼓「自分たちが生意気だったのは認める。私もまだ若かったし、女性差別的なものに敏感だったし、なめられたくない気持ちも強かった。でも、生意気な男はいっぱいいるのに、それは大して問題にならない。それどころか、時にはカリスマ性として持ち上げられることもある。女はそうはいかないよね。ステージ上はもちろん、ステージを降りても世間から細かいチェックを入れられる。愛想の良さ、従順、つまり、“口答えはなしっ!”ということなのよ。だからこそバンドが楽しかったのは、お互い言いたいことを言い、他のメンバーの流儀をうるさく言わず、言われもせず、お互いを尊重し合えた関係があったということだったと思う。その頃の時代、本当に世間の荒波は女には厳しかったから。まあ、今だって変わらないけどね」
  
 結成時、楽器の弾き方さえわからなかった彼女たちが、バンド的成長を経て変化しても、一貫して変わらないのは「自分たちにとって大事なことをやりたいようにやる」こと。メジャーからの申し出を当たり前のように自然消滅させ、ファーストに次ぐ作品を自分たちの「筋肉美女レコード」からリリースすべく、セカンドアルバムへの準備を自ら始めていくのである。

〔上〕〔下〕‘83〜‘84年ごろの水玉消防団ライブ。この頃からオカッパの頭にデカい造花が、天鼓のトレードマークになる。「とにかく人を面白がらせよう、驚かせようってことをいつも考えてた」(天鼓)


 
 
 
●天鼓 1978年より女性のみのパンクロックバンド、水玉消防団で音楽活動を開始、80年代のニューウェイヴシーンで10年間活動を行う。同時に80年代初頭にNYの即興演奏に誘発され、声によるデュオの即興ユニット、ハネムーンズをカムラと結成、活動開始。その後、ソリストとして活動を続けるうち、86年頃よりヴォーカリストではなく「ヴォイス・パフォーマー」と称するようになる。「声を楽器に近づけるのではなく、より肉体に近づけるスタンス。あるいは声と肉体の関係を音楽のクリシェを介さずに見つめる視点。“彼女以前”と“以降”とでは、欧米における即興ヴォイスそのものの質が大きく変質した」(大友良英)。85年のメールス・ジャズ・フェス(ドイツ)以降、世界20カ国以上でのフェスティバルに招聘されている。これまでの主な共演者は、フレッド・フリス、ジョン・ゾーン、森郁恵、大友良英、内橋和久、一楽儀光、巻上公一、高橋悠治など。舞踏の白桃房ほかダンス、演劇グループとの共演も多い。水玉消防団以降のバンドとしては、ドラゴンブルー(with 大友良英、今堀恒雄 他)アヴァンギャリオン(with 内橋和久、吉田達也 他)などがある。15枚のアルバム(LP /CD)が日本・アメリカ・カナダ・スイス・フランス・香港などでリリースされている。演奏活動の他、各地で即興・ヴォイスや彫塑、空間ダイナミックスなどのワークショップを数多く行っている。
 

◆天鼓 ライブ情報

11/1(水)
「Over The Rainbow」 坂田明+天鼓デュオ
@アートスペース&カフェ(足利)



11/3(金)
「宇川直宏展 FINAL MEDIA THERAPIST @ DOMMUNE」
@練馬区立美術館 (11/5GIGANOISEプレイベント)

 
11/5(日)
「GIGANOISE vol.112」
@秋葉原CLUB GOODMAN
出演/灰野敬二、天鼓、美川俊治、田中悠美子、原田仁、武田理沙、MADZINE、吉田隆一、森田潤、香村かおり、安永桃瀬、Dave Skipper 、Deja、DOKKAEBI、TonyUnm、MIYA、YI SEUNGGYU 、doravideo 他


 
●カムラアツコ 80年代、日本初の女性パンクバンド「水玉消防団」で、ボーカリスト、ベーシストとして音楽活動開始。日本パンクシーンの一翼を担う。同時に天鼓との即興ボーカル・デュオ「ハネムーンズ」にて、ニューヨーク、モントリオール、ヨーロッパで公演、ジョン・ゾーンはじめニューヨーク・インプロバイザー等と共演。その後、英国に渡りポップグループ「フランクチキンズ」でホーキ・カズコとペアを組む。オーストラリアを始め、ニュージーランド、アメリカ、カナダ、ヨーロッパ、ソビエトなどツアー。90年代は、ロンドンで始まったレイブシーンでダンスミュージックの洗礼を受ける。2000年以降、「I am a Kamura」、「Setsubun bean unit」でフォーク、エスニック、ジャズ音楽の領域に挑戦。現在の自身のプロジェクト「Kamura Obscura」では、Melt, Socrates' Garden、Speleologyのアルバムをリリース。エレクトロニクス、サウンドスケープ、即興の渾然一体となったさらに実験的な新作「4AM Diary」を2021年末にリリース。同年秋、イギリスのポストパンクバンドNightingalesの満席完売全国ツアーをサポートする。2019年にはバーミンガムの映画祭Flat Pack Film Festival、2022年10月にはポルトガル・セトバルの映画祭Cinema Charlot, in Setubal, Portugal にて、日本の前衛映画の名作「狂った一頁」の弁士を務めた。
 

◆カムラ ライブ情報

10/20(金) 
梅津和時&KIKI BAND in London
@Off the Cuff(London)
supported by Kamura Obscura, Yumi Hara, etc

 
11/8(水)
舞踏UK ツアー 上杉満代舞踏公演 in Birmingham
Live music:Kamura Obscura
 
 
●水玉消防団 70年代末結成された女性5人によるロックバンド。1981年にクラウド・ファンディングでリリースした自主制作盤『乙女の祈りはダッダッダ!』は、発売数ヶ月で2千枚を売り上げ、東京ロッカーズをはじめとするDIYパンクシーンの一翼となリ、都内のライブハウスを中心に反原発や女の祭りなどの各地のフェスティバル、大学祭、九州から北海道までのツアー、京大西部講堂や内田裕也年末オールナイトなど多数ライブ出演する。80年代には、リザード、じゃがたら、スターリンなどや、女性バンドのゼルダ、ノンバンドなどとの共演も多く、85年にはセカンドアルバム『満天に赤い花びら』をフレッド・フリスとの共同プロデュースで制作。両アルバムは共に自身のレーベル筋肉美女より発売され、91年に2枚組のCDに。天鼓はNYの即興シーンに触発され、カムラとヴォイスデュオ「ハネムーンズ」結成。水玉の活動と並行して、主に即興が中心のライブ活動を展開。82年には竹田賢一と共同プロデュースによるアルバム『笑う神話』を発表。NYインプロバイザーとの共演も多く、ヨーロッパツアーなども行う。水玉消防団は89年までオリジナルメンバーで活動を続け、その後、カムラはロンドンで、天鼓はヨーロッパのフェスやNY、東京でバンドやユニット、ソロ活動などを続ける。

◆天鼓 Official Site

天鼓の公式サイト。ヴォイスパフォーマーとしての活動記録、水玉消防団を含むディスコグラフィーなど。

Kamura Obscura

カムラの現プロジェクト「Kamura Obscura」の公式サイト。現在の活動情報、水玉消防団を含むディスコグラフィー、動画など。

◆水玉消防団ヒストリー バックナンバー



 



 
 
 
 
 
 
 


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