授業
お金を稼ぐことができたら、バイトを始めようと思っています。自分の生活を担保できるだけのお金を稼げるようになったら、バイトを始めたいです。気になっているのは友人がやってる除雪作業員の仕事、カラオケの店員、別の友人がやってる梱包の仕事です。引越しはやりたくないな...(いい思い出がない)
大学の先生が仏教の女性差別観を題材として授業をしていたのですが、仏教は本来差別を否定するところから出発するわけですが、実際に経典が残って後のたくさんの人々の解釈によって、そこに差別観が醸成されたようなのです。女の人は成仏できないとか、そのようなことが中世の日本で言われていたようなのです。
教授が30年前にそれを話すと女子大でとんでもなく睨まれた、なんて話をしていて、私が驚いたのはこの人は30年も教壇に立ち続けているのか、と思いました。授業の途中、途中退室する人が何人かいたのですが、「今日はなんだか抜ける人が多いな、ほんとしょうがねぇな」と怒りを露わにしていて、それは冗談というよりキレでした。私はそこから30年授業はやっているけど、今でも退室する人がいて、また、退室する人は授業がつまらなかったから退室するというのも理由の一つとしてあると思うが、その点を考慮することはこの30年の間になかったのかな、と疑問に思いました。大学の先生は授業、というものには厳格であり、ある意味一つの枠組みの中で"その授業をよく聞く生徒"が、優秀だと思われるのかもしれないな、と思いました。
仏教の僧侶、聖覚法印(せいかくほういん)の話が出たので、私は確か聖覚法印は親鸞を法然上人のいる吉水へ案内した人ですよね、と聞いたら、「そうそう法然大好き門弟の1人」というようなことを言っていました。ただその時、明らかに教授が警戒モードに入っていて、よく分かりませんが、おそらく退出する人が多かったから、生徒に不信感を感じていて、そんな中で質問をする人間が現れたから、少しキョドっていたのかな、と思いました。しかし私は本当に興味があって聞いたのに、若干拒絶反応を示されたので、ああもう聞きに行くのはやめよう..と思いました。
学んだところによると、日本の和歌と中国のサンスクリット語は本来なら全く別の言語ですが、昔日本の偉い学僧がその二つを結びつけて、実は同じ言葉なんだ!と言った人がいて、もっと詳しく説明すると中国の方面では梵語が仏の言葉とされていますが、これを日本で考えると和歌がそれに該当する、と考えたようなのです。中世の日本の時代では日本の神々は仏や菩薩の生まれ変わりだ、とする思想があったようで、そこのところからこのような論が生まれてきたようなのです。
私が注目したのはその日本の学僧は、決して頭が悪かったわけではないだろう、ということです。本来なら無関係であるはずの梵語と和歌を結びつけるのははたからみればおバカな発想に映りますが(少なくとも私にはそう見えた)、それをしたのは当時最高の教養を身につけていた偉い学僧だったというのですから、そこには深い理由や思惑があったと思うのです。もしそこに実存的な生の苦悩を解決するという思想があるのならば、私はそれを知りたいと思いました。
その偉い学僧がそのような説を論ずるようになった背景に、その本人の苦しみと求道があったのだろうか、輪廻を説く仏教の説を論ずるということは、必然的に生と死を見つめることであり、それが中世に行われていたというのなら、ここにも一つ私たちの生活にとっての何がしかの示唆も眠っていやしないか、と思ったのです。また別の授業でもしっかり学びたいな、と思いました。
また別の日本史の授業では、日本の歴史を語るにおいてこれだけは避けて通れないというキーワードがあって、それが「天皇」である、ということを聞きました。武士の時代が鎌倉あたりから起きたと聞きましたが、その武士が台頭しているのにも関わらず、天皇は消えることはなかった。この日本の歴史において天皇という存在は、重要な意味を持つのだ、ということを教授が言っていました。
鎌倉には源氏と平氏の歴史がありますが、それらが台頭しても天皇という存在はなくならなかった。天皇は武士という関係と対立関係にあるのではなく、相互補完をし合う関係だったというのです。また武士の源流はもともと天皇を守る役職についていた人たちなのではないか、とするのが有力な説なようなのです。平安京や平城京、中大兄皇子や大化の改新など、中学でテストの知識として学んだものが、実はちゃんと奥行きがあったのだ、ということは大学に行って分かったことでした。
また、源頼朝という人物は当時でいうところのカリスマと言えるような人物だったそうで、東北を統一するときに、わざと祖先が戦った地で敵の首を取ったというのです。歴史的な意味を受け継ぎながら、実際に東北を平定した。この行動力と頼朝のメッセージ性は確かに普通の人ではない印象を受けました。
話は変わりますが、一つ私には疑問なことがあって、武田信玄や上杉謙信、織田信長や徳川家康といった戦国武将は、その主観において死を乗り越えていたのか、という疑問があるのです。
詳しいことは分からないのですが、戦国時代は文字通り戦の時代であって、自らの命が賭けられるわけじゃないですか。普通私ならそんな命の危険が常時ある環境にいたら、精神的に参ってしまう気がするのですが、武田信玄や上杉謙信、織田信長や徳川家康はある意味主観的な目線において、死を乗り越えていた、あるいは死への恐怖を克服していたのか?と思えてならない時があるのです。勿論徳川家康なんかは、敗戦によって脱糞した姿を絵師に描かせた、なんていう逸話を聞きますので、当時は死が本当に怖かったと思うのですが、その後の徳川家康の生き様というのはどこか死を乗り越えていたとしか思えないような気がするのです。
日本史の教授は、昔の日本人と今の日本人では海外の人間と日本人とくらい価値観が違う、と言われていたので、その当時の当たり前が死を覚悟する、ということだったから、私たち現代のさほど死の危険を意識しない平和な世の中においては、徳川家康や織田信長の生き様がどこか死を超越していたように見えるのは、何の不思議のないことなのかもしれませんが。歴史も私はミーハーなので、詳しいことは分からないのですが、そのような疑問を感じました。
哲学の授業で、ギリシアの時代での人間としての正しさ、なるものについて学びました。人間は3つの部分に分類され、一つが理知的部分、一つが気概的部分、最後が欲望的部分、これらの部分を人間は持っている、と聞きました。そして興味深かったのは、これら3つが互いを邪魔せず協働している時、これこそが個人の魂における正義である、と述べられていたことです。
気概的部分-怒り、気概、恥などを感じる部分と、欲望的部分-食欲、性欲などを感じる部分、これらが不必要なものとみなされるのではなく、これらをバランスよく調整する理知的部分が働いて、3つが協働している状態、それこそが個人の魂における正義だ、と述べられていたことが興味深かったです。気概と欲望が否定されないこと、それらが働くべきときに働くこと(それを理知的部分が決める)、これこそが人間としての個人の魂における正義、それは少し禁欲主義とは違うものだという認識をしました。
うつの治癒において、人間は心と頭があって、心は「今ここ」を生きる大自然原理そのもの、頭は「未来に備える、計算する」というコンピュータ的な役割をするもの、という構図があります。そしてそこで述べられていたのは、この「心」と「頭」が協働してはじめて、人間は「意味」を感じることができるだろう、と述べられていたのです。まさに、理知的部分が調整を働いて、気概的部分と欲望的部分が協働する、ということに合致する気がしたのです。そうしてこそ、人間はダイナミックな生きる意味を感じることができる。哲学はやはり、このような人間の心のメカニズムについてしっかりと、本当にしっかりと、考えられていたのだなと感動しました。
韓国語の授業で、韓国の離職率が若干日本より高い、という話を聞きました。とりわけ20代30代の離職率が日本より少し高い傾向にあるらしいのです。そしてそれはなぜかというと、韓国では上昇志向があって、キャリアアップする、ということが常のようなのです。韓国のビジネスの行き着く先は、韓国の経済の大部分を占めている財閥、に行き着くので、そこに行くために人はキャリアアップをする、故に韓国の離職率は高い、という説明を受けました。また韓国には伝統工芸、というような概念が比較的薄いということが確認され、日本ならば伝統芸能、伝統を受け継ぐ職人、というものがあるわけですが、韓国にはそのような伝統工芸がないのだ、と教授は言っていました。だからこそ人々はキャリアアップ志向となり、次々と会社を転々とするらしいのです。
興味深いのは、ああ韓国もかなり出世という志向があるのだな、と思ったことです。日本でも出世というものはあると思いますが、どちらの国もキャリアアップを目指して、上昇していく、このような志向があるのか、と思いました。企業の利益と自身のキャリア形成、このような文化の中で熾烈な戦いをしている、そのような同士として、話をすることはできないか、という夢を見ました。
話は変わりますが、出世、ということを私はよく考えます。ある人が出世はゲームだ、という発言をしていて、もしやりがいとかお客様との密接で丁寧な、繊細なコミュニケーションをできる仕事をしたいのなら個人事業主がおすすめだ、と話していました。そして出世はどちらかというと次から次へ敵をバタバタと倒していくイメージ、つまりレベルアップゲームだ、ということを話していたのです。ああなるほどな、と思って、私は会社というものは案外、名誉や利益という側面が強いもので、そこに心理学的な人格形成、人と人との心の成熟、和、親密、相互理解、というものは薄いのかな、と感じました。それをするなら個人事業主の方がいい。私はこれを聞いてなるほど、と思ったのです。
私は以前このようなことをnoteでつぶやいたのですが、「競争社会を楽しめる人間は、ある意味その競争から離脱した人間ではないか。別の言葉で言えば、負けてもいいと思えているから、勝ちにこだわることができるのではないか。負けてもいいということ、それはつまり競争社会からの離脱で、そしてこれができてこそ、競争社会を逆説的に楽しむことができるのではないか。もし勝利というものだけしか認めないとするならば、その本人はたちまちのうち恥辱に陥って、決して勝つことはないのではないか。」このようなことを言ったのです。私は韓国の話や日本の出世を考えるとき、本当の意味で大切なのは出世志向から解脱していることではないか、と思うのです。ではその解脱はどこから来るのかという話ですが、私の場合はうつの治癒から来ました。あと早い段階で社会からドロップアウトしてしまったことも起因しているかもしれません。社会からのドロップアウト、度重なるうつ、そしてそのうつの治癒、ここから出世志向のある世界にいても、その世界にいながらその志向と距離が取れる、ようになりました。だから私はこれも前から言っていることですが、うつは意味のあることだ、と言っているのです。
といっても私はまだ社会に出ていないので、これは単なる知識に過ぎません。実際に社会に出てみたらまた、何か違った景色が見えるかなとも思っています。しかし大枠の、出世は出世を追わないから出世を楽しめる、ということは今の段階から間違っていないとは思います。