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我慢

9月までは自分的にお休み期間にしようということで記事を書くことをやめていました。しかし少しだけフォロワーさんが増え、その方の自己紹介や魅力的な記事をみるに従って、私も少し記事を書きたいなと思いました。

私は全日高校を1年で退学しており、うつを患っています。うつは厭世的な長引くうつというより、もちろん長引いたのですが虚無的、つまりエネルギーがとても強い努力の反動としてのうつになってしまいました。16歳から22歳までそのうつとは付き合うことになりました。

働いたことがあるのは引越しのバイト、新聞配達、そして今現在の塾のアルバイト、くらいです。ただ1番働いた、と言えるのは仏教を先生から聞いてその動画を2年間で1500本くらい視聴し、仏教の理解を深めるとともに、自分でも情報発信していた、過去があります。無論、誰からも見られるわけではなかったのですが。

しかしかといって私は宗教に誰かを誘いたいわけではありません。というのも私自身がその宗教問題に悩んできましたし、何より友人が苦しい思いをしていたのを間近で見て、深い鉛を自分の心にも抱えたからです。この宗教問題の根本は死生観の決定、人間の欲情の機械的認識、そして僕たち青少年の自愛不全が関わり合っていると思いました。

難しい言葉ですが、基本仏教というのは人間を欲の塊、煩悩と捉えます。そして自愛不全というのは毒親など機能不全で"尊重"されたことがなかった人たちのことを言い、その人たちにとって必要なのはその欲をたっぷり、しっかり承認することが必要なのです。それまで見向きされなかったわけですから。

しかし仏教の禁欲的な教えがそこに結びついてしまうと、もともと愛されていなかったのに、もっと愛されてはいけない、この認識になってしまうのです。故に私は人間は欲があるから人を殺すのではなく、人間欲を認められなかった時、その時に限って人を殺すのだ、そう思ったのです。つまり本当の意味で欲がそれぞれ満たされれば、そこには承認の空間が広がる、ということです。

この禁欲、というものは非常に宗教の問題と密接に関わっている事柄と思います。故に私にとって「欲を大切にしよう」これを言うことは宗教の歴史から見て冒涜といえる行為であり、ただ1人誰にも見向きもされず、そして禁忌を犯すつもりでした。しかしやはりこれを言わなければ同じように主権が殺されてしまう人が出てきてしまう、年代が上の壮年の方ほど、この謙虚であれ、という教えは入りやすい気がしてるのですが、若い青少年のか細い生の尊厳を持つ人々には、欲を禁ぜよは御法度な気がするのです。故に私はただ1人、欲を大切にせよ、と言うのです。

こういうわけで、私が言いたいことはただ一つ、あなたの欲を大切にしてあげて、それであります。そしてそれは欲を本当に満たした時、それは本当の意味で悪として発揮されない、なぜなら尊重された尊重できた、この喜びがありますから、他者に対しても必然的に寛容になるからです。もうあなたを殺さなくていい、それだけです。

またこれはうつの病理にもそのまま当てはまり、元来うつに陥る人はここは見落とされやすいのですが、相対的に見ても努力家な人物で、元来意志力が強い人間です。これは私も含めて、私自身私の努力は誰も真似ができないだろう、それほどに心身を稼働させ続けました。そしてその反動で希死念慮が起きる。つまりうつというのは自分の「犠牲への反動」、どう考えてもその不調は「正当」なんですね。体調不良になるのは当たり前、私はうつの方を見て思います。それはうつの方を責めるのではなくて、あなたほど頑張ればそりゃ体は壊れてしまうよ、このことが自分の経験からも分かっているからです。

ユング派の心理療法では一つの精神障害を何らかのメッセージと捉える、と言います。そしてうつの人この人を女性だとするならば、その女性は社会でバリバリ働き、7年ほど勤務した後にうつになってしまった。会社ではノルマが課され、成績も優秀だった。しかしある時プツリと糸が切れたかのように身体が動かなくなってしまった、このような例があったとします。これはこの女性がとても"男性的"に生きてきた、という側面があります。というのは努力、我慢、勤勉、成果、強さ、こういった言葉に象徴されるような生き方です。そしてこの女性に欠けたものは何か、それは"女性的な生き方"であります。つまり弱い、か細い、弱音を吐いてもいい、男性に頼らなければならない、頼っていい、花を美しいと思う、辛いとあなたに伝える、このような柔らかさのある生き方です。つまりこの女性的な生き方がおざなりにされ、男性的な生き方をし続けてきたことにある時身体が悲鳴をあげ、ストライキを起こした、これがうつのからくりになるのです。

私が自分の表現をしてみる、自分にお金を使ってあげる、これを推奨するのは、女性に限らず男性女性どちらにも、何がしかの"女性的"な生き方を推奨するものであります。自分の感性を表現し、その細やかな感受性を思い出す、そうすると自分が感じてた社会への違和感や疑問が実は割と正当だったことが分かってくる、こんなこと考えてしまう自分がいけないと思っていた思考が徐々に落ち着き、自分は社会を真っ当に感受してきた人間、に生まれ変わるわけです。そうなると本当の意味でその人は"休める"ようになります。なぜなら相対的にも主観的にも無理をしてきたのだ、ということが社会的にも背景的にも受容されるからです。つまりはうつは努力の証、当たり前の景色、素晴らしい勇退、あなたがあなたらしくあることへのメッセージ、ということです。

このように禁欲主義、というものは宗教を語る上でもうつを語る上でも大切な事象になってきます。どうかみなさんが自分の欲を大切にし、日々を彩りをもって生きてみてほしく思います。私が常に詩作や創作をするのは、その彩りの中に生きている一つの現れなんですね。

話は変わりますが16歳で退学してしまった私は17歳18歳19歳の3年間を浪人し、難しい大学を目指したものの高校一年分しか履修していなかったため絶望的な点数を叩き出し挫折、19歳で定時制高校に編入しました。仏教は主に浄土真宗ですが高校編入から学び19歳から22歳まで3年間学び、今も学んでいます。

大学にギリギリの点数で入り、今年大学一年生になりました。しかしながら機能不全の問題などもあってブログをかなりの切迫感で書き、もしブログを書いていなかったらもう少し精神が安定していたのかな、なんて思うのですが、いやこの春から夏にかけてブログを書かないということは自分にはできなかった。わりかしその生活は極限だったけれど、これはおそらく機能不全の問題が密接に関わってて、その当時の自分は頑張るしかなかった、このように思いました。

そうして夏休みに入り、はじめて一人の人間として休みをもらっている、そんな気がしています。この春から夏にかけて全て自分が出がらしになるまで出し尽くした感があり、この8月はわりかし休み、つぶやきばかりにしている、という感じです。なので9月までは(今はもう言葉が湧き上がってきているのですが)つぶやきで我慢していこうと思います。9月になったらより一層パワーのつけたエッセイ、創作、を楽しんでいただけたら嬉しいです。

これは一つの望みなんですが、この執筆活動でもしお金を稼げたら、とても嬉しいです。創作大賞には200作品くらい応募しましたが、可能性を掴んでいきたいです。友人が社会人なので、そこからのお誘いもいただいているので食いっぱぐれることはないのですが、自分で作ったこの仕事でお金をもらえたなら、それは素晴らしいことだなと思うのですよね。

私が不登校になり浪人し、うつになり、先日は失恋し、そんな時にたくさん周りの人からご飯を奢ってもらいました。まあ時には結構自分下に見られてるのかな、みたいなすごい同情されている感じ(自分的にはわりかし失恋もすごいいい経験だったと思ってる)もありましたが、そうして支えてもらった人にお返しをしたいです。自分からお金を出せるって、1番な喜びの気がします。私はあまりにも貰いすぎた。「まだ学生だから」「いいっていいって」こう言ってたくさんの友達が奢ってくれた、そろそろ自分の手でお返ししたいと思うのです。それに私が書いたこのブログはそれに応答できるだけの、あるいはそれを越えるだけの内容を含んだものであることも自負しています。

うつは相対的に努力。私はそれらを乗り越えたこの強さと、そしてそこから起きる一つの面白味・おかしさでもって、苦悶とユーモアを知り、この先も生きていこうと思っています。ノートを始めて、半年以上が経って、やめてしまった人もたくさんいました。勝手に同期だと思ってた人もアカウントごといなくなってしまうことが多かった。でも自分はアカウントをなくすどころか一つもコメントを消さないで読めないくらいの大量な創作をしてきた、それ自体も褒めてあげたいです。

これからも頑張っていこうと思います。

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