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日本野球の歴史#1

 

長文になるため、本日から9回に亘り、戦後の日本野球の変遷を毎日?書き連ねてまいります。野球よりサッカーがいいな・・バスケットの方が・・、テニスの方が・・、と思われる方がいらっしゃるかもしれません。他のスポーツついては、どなたかにお譲りするとして、ご興味のあるの方は『野球』を覗いてみてください。


  

(野球#1)


 昭和二十年の新嘗祭にいなめさい(十一月二十三日)には、早くも元プロ野球選手による東西対抗戦が行われております。
 十三対九で東軍が勝ちましたが、その東軍にセネタースと契約したばかりの大下弘が出場しております。
 彼は昭和十八年の学徒出陣で陸軍に入り、昭和十九年に陸軍伍長、終戦の年(昭和二十年)には陸軍少尉に任官、パイロットとして豊岡の航空士官学校にいました。所謂「甲幹」です。
 不思議なことに川上哲治も航空科の陸軍少尉でした。彼はこの時期、熊本の実家でこれから自分の人生、如何生きようかと模索していたのかどうか、この試合に出場しておりません。

 昭和二十一年八月に全国中等学校野球優勝大会(後の全国高校野球選手権大会)が復活し、八月二十一日に決勝戦が行われ、浪華なにわ商業学校が優勝し最優秀選手に平古場昭二投手が選ばれております。

 当時、甲子園は接収されており、西ノ宮球場で行われました。平古場投手はその後慶応に進み、鐘紡に入社。オール鐘紡のエースとして君臨しました。彼は都市対抗や高校野球の審判として時々姿を見せました。アマチュアリズムの権化ともいえましょうか。

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