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映画鑑賞記録:ジョーカー フォリ・ア・ドゥ(ネタバレあり)

「二人狂い」のタイトル通り、現実から目を背けさせる壮大なフィクションである「恋」というテーマはやはり楽しい。アーサーが恋という虚構に嵌り、現実から目を背ければ背ける程事態は悪化し「アーサー」を守りたいと願う人々との決別、破滅へのカウントダウンはじまる。
前作「JOKER」では弱者の覚醒により殺人というカタルシスが引き起こされる犯罪教唆的な結末だが、今作はカタルシスと引き換えにされたもの、偶像として崇められたジョーカーを担った一人の男の苦悩を描いているという点で前作を否定している所がとても良い。犯罪なんかして救われることなんてない、一時の狂騒なのだ。それでも複製され再生産され続けるジョーカーという虚像…
皆が憧れたジョーカーの光と現実の悲惨さ/弱者ではあるが彼に寄り添いたいと願う者もいるアーサー、この対比が服装を模倣した犯罪者まで出るに至った前作へのアンサーとなっていると思う。ジョーカーでいることは外から見るほど楽じゃない。フィクションみたいな万能で魅力的なヴィランなんてほんとうはどこにもいない。自らの目を曇らせて敢えて夢を見なければ。「だがそう生きる痛みは生半可ではない。警官からの暴力・レイプ、連鎖して起こるリッキーへの暴行と死。専任弁護士やゲイリーとの決別。一方で「アーサー」として生きるためには母やソフィー視点の受け入れ難いアーサー像を受け入れ、人々から見下される劣った惨めな男して生きねばならない。ならばジョーカーとして生きた方が良いじゃないか…とは言えないほど、彼の失ったものは大きい。
物語冒頭から全ての登場人物と(彼を救おうとする弁護士やリーを含む信奉者も)すれ違う認識の差が丁寧に描かれる中、ゲイリーのシーンだけは「アーサー」の事を思い痛みを抱えるものとして通じ合う瞬間があり奇跡のように胸を締め付ける。
作中では何度も聖者の行進が流れる。
聖者の行進な奴隷として虐げられていた黒人が埋葬後魂が解放されることを祝う音楽だ。

聖者が行進する時
聖者が行進する時
神よ、私もそこに居たいのです
聖者が行進する時

今作はアーサーの心情が音楽として表されるミュージカルだ。虚構ですと言わんばかりの劇中劇のミュージカルシーンもあるが、それ以外も全編通して彼の心情と音楽はシンクロしている。であるならば、聖者の行進も彼の魂の奥底に眠る願いなのではないだろうか。
死ぬ時にはゲイリーのような聖者として行進に加わりたい。それがアーサーの本心なのだ。
終盤、唐突に挿入される「子供ができたの」というリーの言葉と立派な子供を育てたかったと願うアーサーのシーン。子供とは行為の証明であり、個としての幸せの象徴的存在とも言える。アーサーはジョーカーになりたかったのではなく、リーと子供を作り育てるという細やかな個人的幸福を求めて彼女の期待に応え続けたのではないか。そしてリーはそんな心境を自らの欲望に利用したともいえる。従来の作品ではジョーカーに感化された精神科医という副次的な存在として描かれてきたハーレクイン。しかし今作は自らジョーカーとの出会いを作り、火をつけて逃亡劇を演出し、アーサーをジョーカーとして導く…彼女こそがフィクサーだ。彼女は一貫してステージの上で虚構として生きることを夢見て、その為に自ら行動を起こす。全てはジョーカーと山を作るために。山とは何なのだろう。今まで底辺を這いずるように生きてきた者が新たな価値観を築き、そのヒエラルキーの頂点に君臨する事なのではないか。偶像として大衆のイメージの中で再生産され続ける「我々が見たい」虚構のジョーカー像。それに祀り上げられ壊される個としてのアーサーは、裁判で「殺すんじゃなかった」と、吐露する。
アーサー自身も自身を騙しながら偶像を夢見て生きたかった。恋だったから。ミュージカルシーンでは偶像であるジョーカーを夢見ながら、それを望むリーがアーサーに銃口を押し付ける存在であることを忘れる事が出来ない。
「夢しか無かったのにあなたは降りた」と語るリーは多分、恋に落ちたのではない。自覚的に恋をしに行ったのだ。 そう、夢を生きると覚悟を決め、どちらかを選び抜くことができれば結末は変わっていた。映画の途中で放火したように、多分裁判所を爆破をしたのはハーレクインだから、最後まで彼がジョーカーを演じきればカタルシスのあるラストが待っていた。裁判所を爆破し、ハーレクインとの逃避行というカタルシス。それは従来描かれてきた狡猾でコミカルで残忍なジョーカーファンが望む虚構のヴィランのピカレスクロマン。
ジョーカーなんてどこにもいない。あるのは共同幻想だけ。だが、なんと甘美な幻想だろうか。現実に疲弊し絶望しかけている者ほどその麻薬はよく効く。そもそも、従来のジョーカーだって、笑えるジョークを言っていたかというとそうではない。恐怖で笑わざるを得ない力関係に持ち込んでいたといえる。笑われるのではない、笑わせるのだ。喜劇は主観だから、そこにハッピーなどなくとも、笑いがある事が逆説的にハッピーなのだという力技で生み出す一人舞台。そのステージに多くの人が魅せられた。
だが、恐怖が生み出す笑いがハッピーではないと他ならぬアーサー自身が気づいてしまった。
ステージが生み出す夢を肯定する。犯罪が産むハッピーエンドなんて無いと否定する。それは映画という虚構のエンターテイメントとしてあるべき形なのではないか。
ラスト、恋という幻想を失いジョーカーとしても生きられず、アーサーに寄り添う者も失った彼にとって、息子とも取れる年齢の若者に耳を傾け挙げ句刺殺される結末は救いのように感じた。
一点、気になったのはソフィーの存在だ。ソフィーにとって当たり前の善意は、愛情や善意を受け取ることの少ないアーサーにとっては特別な好意のように受けとめられ、恐怖や不利益を被ることとなった。社会的弱者に手を差し伸べ恩を仇で返すような目に遭う…という事は現実でも起こっている、ならば関わるべきではないのか。映画としてそれを唆し兼ねない描写してしまう危うさ。善意の個人だけでは解決出来ない、社会全体で負うべき問題がそこにある。

それまでのジョーカー像を壊すという点で、ジョーカーに依拠しながらジョーカーである必要性を感じきれなかった前作は、クレしんの「アッパレ戦国大合戦」に重なるのだが、今回、壊した先に何を作るのか…という難しさにきちんと応えていたと思う。
妄想であり虚構の偶像としてだが、見たかった格好良くてキュートでコミカルなジョーカーを示した。そしてそれが嘘っぱちであることも。そんな者いないと言われても、どうしようもなく偶像にときめいてしまう私を理解させられた。軋轢とすきま風を無視してでも圧倒的なフィクションの存在を欲してしまう個人的実感。
この共同幻想と現実の綱引きに認知に歪みや他者とのズレを抱える人間が生き抜くヒントが込められているように思う。虚構を生き抜く事だってそれはそれで素晴らしい事なのだ。その選択肢は全て自らの手にある。フィクションを生きるのか、地に足をつけるのか、どちらも選びきれないのか、誰が何と言おうと決定権は自己にある。そしてどれを選んだとしてもそれぞれの選択なりの茨の道が待っているのだ。

『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』の挿入曲(24曲)とサントラ #Filmmusik https://filmmusik.jp/joker-folie-a-deux/ @FilmMusikJPから

私は歌もミュージカルシーンも大好き!

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