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映画鑑賞記録:箱男(ネタバレあり)
かなりロジカルに組み立てられている印象を持った。はじめに言い訳をすれば、記憶力の限界で台詞の言い回し等不正確なのだが、その曖昧な記憶が読み解くのに水を差してしまいそうなのが申し訳ない。とりあえずA研までに一旦は感想書き上げるぞ!と決意しているので、おいおい再鑑賞して穴埋めして加筆修正します。小説は二十年ほど前に読んだきりで殆ど覚えて無いのが幸いだった気がする。これだけ濃い内容で初回視聴中に原作との比較までしていたら脳みそ混乱しそう…
* * *
箱男とニセ医者・軍医の視点、現実と空想の入り混じるこの映画を見る時、何故箱男になりたがるのか・箱とは何か…という箱を巡る謎と、葉子というファム・ファタールを巡る男達の物語という二本の補助線を引くことで見易くなるのではないかと感じた。
箱男とは何か。舞台装置に於ける「箱」がベンチであり木であり部屋であるように、この物語に於いての箱及び箱男というのは場面により意味合いを変化させているようだ。それが映画自体を豊かにもし、難解にもしているのではないか。場面により箱は、人間の脳髄の檻のであり、映画館であり、ペルソナであり、病院であり、他者との超えられない境目であり、様々に変化する。
箱男を意識するものは箱男になる
箱男は街の殺され屋
箱男にとって大切なのは箱ではなく記録が書かれたノート
箱男は一つの街に一人
覚えている箱男が箱男足らしめているルールを列挙したが、それらはかつての、そして今の箱男達の考え書き記したルールだ。
箱男というのはつまり、それらしければいいのだ。結局決めるのは自分の脳なのだから。そしてより箱男らしい…と感じてしまったからこそ、箱男はニセ医者に敗れたのだろう。箱というのはそれくらい曖昧で、いいかげんで、しかし確固とした信念に基づくものなのだろう。どんなに馬鹿げていると頭でわかっていても変えることが出来ない観念に固執してしまうことが誰しもあるように。
完全なる孤独・孤立を求めながら、箱男は箱男であるが故に街の人々に異物として観察される。本人は真剣に哲学を張り巡らしてみても、着ぐるみのような小汚い段ボールを被って我こそは本物だと主張し戦う彼らは傍からみればあまりにも馬鹿げて滑稽だ(そこが映像的にはとても愉快で好きだ。この滑稽さを浮き彫りにした映画という手段は大成功だと思う)
しかし、滑稽だとスクリーンからその様子を覗き、彼等を嗤いnoteに感想を書き綴る私の真剣さもまた、誰かに嗤われているのだろう。箱男を意識するものは箱男になるのだ。
本物になる為に痒みや痛みに耐える箱男、軍医に成りすます為に浣腸までするニセ医者。新撰組が武士になろうとする為に苛烈な局中法度を架したように、偽物だからこそ本物になろうと自らに架す涙ぐましい努力。本物か偽物かという議論を交わすときの箱は社会的なペルソナとなる。社会から一定の距離を置き観察者として生きるペルソナを欲する箱男。そこから見えてくるのは他者の視線の拒絶だ。
箱男が箱の中に貼った何枚もの女の脚のスケッチ、渡されたお札を嗅ぐという行為。彼は箱なしで人と…特に女性と関わる事に不安や苦痛を覚えているのではないだろうか。
冒頭の映像は箱男になる以前のの彼が撮影したものだったのだろうか。(←追記:どうも27年前の制作時の写真だったっぽい)
写真家だった彼はナイフで削るように見ていたという。そのように見る…ということは、自らが見られる事に対してナイフで削られるように感じるという事だ。仕事として他者を厳しい眼差しでジャッジしてきた彼には、他者が自らに向ける美醜、真偽、好悪といった視線を自らに対しても意識せざるをえなかっだろう。彼にとっての箱男は、自らは観察する側にまわり他者からのジャッジを受け付けない憧れの姿だ。
一方のニセ医者は、長く軍医と医者の偽物として過ごし、本物であることのいい加減さ、偽物の見分けがつかない患者達、時には偽物がより良い判断を下す場面を観察してきたのではないか。だからこそ、箱男が後生大事に記録を持ち歩いていることに気づいた。そうして記録を手に入れたニセ医者は、箱男のなんたるかに気づき、記録など無くともより箱男らしくなることが出来たのだ。
箱男に「なる」にはどうすれば良いのか。
「箱男だ」と宣言すれば良いのだ。
但し、そう宣言することにより様々な品定めの視線に晒される事になる。
それはとても恐ろしい事だ。自らがなりたいと願う想いが強い程、なんの証もなく自らが「そう」だと宣言することは怖い。たとえば作品を発表していなくとも、曰く詩人だと、作家だと、アイドルだと、言葉にすることは可能だろう。だがそう言われた時相手はどう感じるのだろうか。売れてない、偽物、このクオリティで、刺さらない、つまらない…安全圏から否定の言葉を投げかける事は容易だ。言葉が無かったとしてもその視線に常に晒されることを強要される。そこまで想像した上で「我こそが箱男だ」と言い切ることは出来るのか。記録が、証が欲しくなりはしないか。
医者もそうだ、診断は正しいか、説明は丁寧か、待ち時間は、態度は…真偽よりも更に細かい品評、比較…
多分、長年視線に晒されてきたニセ医者はこの先もニセ医者としてやっていく選択肢を選ぶことも可能だっただろう。箱男として他人から証無しでジャッジされる事を恐れなかった。箱男が観測することで観測対象に影響を与えてしまうという事をより理解していた。だからこそ箱男に勝利出来たのではないか。
葉子の求めたものは何だったのか。
リフレインされる「わたしをたすけて」という台詞、この言葉に真実の響きをかんじる。軍医に身体を提供させられる生活を終わらせる為に助けてほしい。それは箱男を求める言葉では無いが、そう歪曲してしまうほどに彼女は魅力的だ。
箱男の映画では三人の男が葉子に対しそれぞれ違った加害的な態度を示している。
いくつもの宗教で女性は誘惑に弱い、または誘惑する存在として描かれてきた。葉子も男達から見ればそのような存在だろう。
軍医から見れば彼女は行為を拒まなかったし協力的に行為に及ぶ女。
ニセ医者から見れば自分に忠実で享楽的に行為を愉しみ現実的な行動をするクレバーさを持つ女。
箱男からすると罠かもしれないが自らを誘い惑わせ、ニセ医者が去った後は時を置かず自らになびく運命の女。
一見、それぞれの男達に都合の良いともとれる言動を取り「誘惑する女」のような態度を取り、あたかも虚構だと言わんばかりのスタイリッシュな偽ナース服に身を包む彼女。にも関わらず、彼女の心情にはリアリティを感じた。いやむしろ、そのニセモノらしさが彼女の心情のリアリティを際立たせていたと言うべきか。
葉子は軍医と行為するのは嫌だとハッキリとニセ医者に示し、箱男の前で裸になるよう促した彼が「彼女はクレバーなんだ」とのたまうと「違う」と彼女にしては強い口調で否定している。
彼女はやはり、ニセ医者を(かつての変わってしまう前のニセ医者を)愛していた。だから軍医に身体を提供させられる以外は気に入っているという病院の暮らしを獲得する為に嫌々ながら抱かれもすれば、身を挺してニセ医者を護ろうともしたのだろう。いや、もしかしたらニセ医者自身というより彼とニセ看護師として暮らす生活こそを愛していたのかもしれない。
彼女が他の場面と打って変わった様子を見せる場面がある。箱に入ったニセ医者に軍医との行為との詳細を伝え、彼の奇行とも思える真剣さをサディスティックに嗤う時だ。あれは自らの目的の為に彼女を利用し粗末に扱うする愛人への復讐なのではないか。幾つかのの事が重なり、ニセ医者が箱男となり去った後、彼女は彼を追いかけることなく敗れた箱男の元に残った。
箱を被ることで他人の視線を遮断しようとした元写真家の箱男と、ヌードモデルであり、(ニセ)看護師。
ヌードモデルという見られる職業に対し彼女は語る。初めは緊張し、視線を皮膚で痛みとして感じるようだったが、慣れると見られることで相手の心の内が伝わるような気がする、と。見られるというのは「ナイフで削ぐような」視線を許可する事である。ナイフで削ぐような視線は、もしかしたら削ぐだけではないのではないか。奪われることによってのみ得るものもあれば、与えることにより奪う事もあるのだ。彼女はそれを知っている。
葉子は、人にを介助し必要とされるニセ看護師の暮らしを気に入っているという。彼女のの献身的な態度は心の傷にガーゼをあてるようでもある。ナイフで削ぐように見る者がナイフで削がれたような傷を抱えている事を彼女は知っている。
箱男からすると、終盤の葉子は自らを誘うように見えたかもしれない。しかし彼女は、見られる側においでと伝えたのだ。
不格好な箱を脱げと。
葉子がカーテンを閉め、二人だけの箱に入っていった(かに見えた)瞬間。箱男が箱を脱ぐことで、彼がかねてより望んでいた願望が満たされたあの場面。少し泣いた。ちょっと不器用なBoy meets Girlなのかな…と感じた。見るも見られるも無い蛹の中。一連の、思いやりとも気づかいともいえないような彼女の自然に与えるふるまい。そこに滲み出るような慈しみを感じた。ついに箱から出るという脱皮が見られるのではないかという期待。
しかし結局箱男は、そこから蝶となって出るのではなく、病院自体を大きな箱とし二人で箱の中に居続ける事を画策してしまう。更にボロボロの箱を身に纏い大きな蛹のように記録を綴り続ける。葉子と出会い変わったはずの己の記録を。
彼女がそんな彼の元から去ろうとするのは必然であろう。はじめに彼女の言葉を裏切ったのは箱男なのだ。だがしかし、あの瞬間というのはこの上なく甘美で希望に満ちた時間だった。もしかしたら葉子の行動はニセ医者への当てつけかもしれないけれど。表情からはどちらか読み取れなかったけれど。
過去にドラマや映画で描かれてきたロマンチックラブが性欲に過ぎないという可能性が指摘される時代。別に性欲も悪いものではないけれど、じゃあ本当のラブって何なのだ…と考えたとき、与えたものに囚われず、違いに争うこともなく、己の心情から離れたものをそっと手放す葉子の態度には愛のようなものをかんじたけれど。コミュニケーションの間合いというのは恋愛関係でなくとも難しい。それぞれが箱の中で除き穴から一方的にジャッジするように見えることも多い。でも、投げかけられたジャッジに身を委ねるのも良いのかもしれない。それこそ、相手の箱に裸で入るようにして。それ自体が加害的になってしまう事も徒労に終わることも傷つくこともあるだろう。それでも…と、この映画を観ていると思うのだ。
1973年の出版の作品の映画化である。ジェンダー観や女性の社会的地位が目まぐるしく変化する中模索した「現在地」としても重要な作品であると思う。更なる時代の変化により男女逆転しても成立しうるような作品になってゆくのではないか。この先十年・二十年経た時にこの映画がどのように見られるのか知りたいと強く感じた。