目論見は泡の如し
私が生まれ育った駅のすぐ側に大きなビール工場が聳え立っていた。
毎日のように見ていた 太陽の下に波の絵の赤いロゴ。今でも目に焼き付いている。
ビール好きの父は瓶のビールをケースで配達してもらっていた。
ちょうど私が「1ダース」という単位を算数で習ったころのこと。
週に1度、ガッチャンガッチャンと音を立てて、独特の四角い前掛けを付けた酒屋のおっちゃんが届けに来てくれる。
瓶が12本も入ったケースを軽々と肩に乗せるおっちゃんは、まるでポパイのように見えた。
「お嬢ちゃんたちにもどうですか〜?」
興味深々でおっちゃんを見つめる私を横目に、ジュースの載ったチラシをこれみよがしにチラつかせる。
ビールと一緒に瓶のジュースを配達してくれるという夢のようなサービス。
母に知恵の限りを尽くして懇願し、バヤリースというオレンジジュースを配達してもらえることにこぎつけた。
弟と取り合うように飲んだ。というか、ほぼほぼ弟が飲んでいたと思う。
ある日、炭酸ジュースなるものを友達の家で知った。友達のお兄ちゃんが得意げに栓抜きで蓋を開けて瓶ごとぐびぐび飲む姿に羨望の眼差しを向けた。
家に帰って すぐさま母に、
「なあなあ、三ツ矢サイダーっていうやつ おっちゃんにお願いできひんかなぁ。いっつも◯◯(弟)がバヤリース飲んでしまうし。」
弟はまだ炭酸ジュースなるものは飲まない、いや飲めないだろうという目論見のもと、私はまたまた らしくない懇願をした。
「しょうがないなぁ、1回だけやで。」
翌週、ガッチャンガッチャンと美しい鐘の音と共に届いた三ツ矢サイダーの輝くクリアな瓶たち。3つの矢のマークはバヤリースよりはるかに大人なのだ。
泡立つ瓶の中味はきっと、宇宙のように果てしない未知の味。
胸の高鳴りを抑えて栓抜きを引き出しから取り出した。
小さな私には力とコツが足りない。母に手伝ってもらい蓋を開ける。
「プシュッ」
瓶の口から今にも泡が溢れそう。
やっと憧れのサイダーに口をつけた。
「わっ!」
泡は一瞬のうちに口の中に広がって消える。甘さよりも弾ける刺激が勝る。
ちびちびと大切に味わう。
「プハッ!!」
口から出たのはビールを飲む時の父と同じセリフだった。
瓶の色こそ違えど、泡の形状こそ違えど、私は間違いなく大人の階段を1つ上ったのだ。
想像していたよりもちょっとぬるいこの大人の飲みものを、しばらくの間は独り占めできそうだ。小さくも壮大な幸せを噛みしめた瞬間だった。
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