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価値あるきみと価値のないぼく

ぼくは今、希死念慮に襲われている。

2025年が始まり、1月の頭にかかりつけの精神科医の先生から「症状が落ち着いてきたので一度投薬を辞めてみましょう。」と提案された。

2024年の7月から半年間、投薬治療を継続して自分でもその効果を感じていたし、うつ病発症以前のような活力が戻ってきたように思っていた時期だった。

しかし、投薬治療を辞めると日に日に抑うつの症状が帰ってきた。

大学三年生の冬の時期であるから、就職活動へ同級生たちの意識は向かっていく。就職活動の第一歩として、その目的意識を定めるための自己分析というものをしなくてはいけなくなる。

自己分析では、過去の自らの行動や経験を遡って振り返り、今までしてきた意思決定の理由や、それらの経験から得た知見、積み上げてきた価値観、そして、今後自分がどう生きていきたいか、どんな人間になりたいかということを深く掘り下げていく過程がある。

ぼくは今を生きるのに精一杯で明日のことも不安で不安で今にでも消えてしまいたいのに、どうして10年後20年後の自分を思い描けるのだろうと感じた。

特に、就活エージェントサービスを利用したとき、屈託のない笑顔で過去のぼくのことを聞き出し、未来について思考を強制してくるエージェントさんと対面すると、ぼくの精神状況がいかに視野狭窄で不甲斐ないものなのか突きつけられているようで深く落ち込んだ。

もちろんエージェントさんは仕事として業務をこなしているだけであって悪意がないことは理解している。しかし、だからこそぼくには辛かった。

そんなこんなで投薬治療を辞め、就職活動をしていたこの1ヶ月で抑うつの症状は悪化していった。

心の奥底で、ぼくにはは価値がなく、幸せになってはいけない、生きていてはいけない人間であると思い込み、その無価値感、孤独感、希死念慮だけが増幅していった。

先日、無価値感を拭うためには生きることを楽しむべき、という内容の記事をとあるカウンセリングルームのWEB上のブログで見かけた。

「信頼できる人と話ができる、ペットとふれあう、趣味に興じる、こうした日常の安らぎや楽しみを経験することで癒されていきます。特に信頼できる人との出会いは大切です。いっしょにいて安らげるパートナー、友人、カウンセラーの存在はとても大きい力となります。」

記事の内容をそのまま抜粋したが、こうして生きる楽しみを感じることはとても難しいことのようにぼくは感じてしまう。

恵まれたことにぼくには、うつ病を発症して以来、症状のことを話すと寄り添ってくれる信頼できる友人が何人もいるし、大学の学生相談室でカウンセラーさんとも繋がっている。ペットはいないけれど、旅行やドライブ、ゲームといった趣味もある。

けれども、最後の最後にぼくのそばにいてくれる人はいないんだろうなと考えたり、今現在のように希死念慮が本当に強まった時に助けを求めると相手を困らせてしまうだろうなと思ったり、趣味も最近はお金がなくて趣味と言えるかわからないほどにご無沙汰になっている。

生きることの楽しみを感じることがこれほど難しいものになるとは数年前のぼくには想像もつかなかった。

抑うつの症状を投薬治療無しで治めるには、根本原因の解決をしなければならないのだろうと今は感じている。

6年前の友人の事故死に始まり、そこから過去の東日本大震災の被災者や、今日に至るまでのその他の事件や事故の被害者に思いを馳せてしまう。

無価値なぼくより価値あるきみが生きていてくれればと何度も願った。

何度願ってもぼくは生きている。生かされてしまっている。

先日の福島の大学受験生の事故も然り、代われるものなら代わってあげたいと心から思う。

世の中の不条理に何もできないぼくの小ささに嫌気がさしてさえいる。

今のぼくは希死念慮に任せてこのNoteを書き殴っているせいもあって、段々思考の悪循環に陥っている気がするのでこの辺りで辞めておくが、また思考がまとまったら抑うつ症状の根本原因にも触れていきたいと思う。

ひとまず今週末に精神科の受診があるので、それまで生きていれば投薬治療を再開するように頼んでみようと思う。

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