読書記録_空白を満たしなさい
『空白を満たしなさい』
平野啓一郎著
講談社
電車で向かいに座っている人の表紙が目に留まった。ゴッホの自画像。ちょうどゴッホ展もやっていることだし、『本心』は面白かったし(『マチネの終わりに』はあまり好みでなかった)、読んでみた。
ジャンルでいうなら、かなりサスペンス・ミステリー寄りの啓蒙書だろうか。
突然、死者が蘇るようになった世界で、主人公の徹生もまた蘇った。彼には、死ぬ直前の記憶がない。自殺なのか、殺されたのか、あるいはひとを殺してしまったのか。その理由は。その本心は。死んだことによるいろいろな空白に迫る。
死者が蘇る、というファンタジーな設定でも、免許の更新だとか、写真の拡散、就職問題、などなど、次々に出てくる地味な問題が、リアリティを感じさせる。細部が詰められているおかげで、設定の奇抜さなどは気にならずに、啓蒙の話・考えさせられる話として読んだ。
原因と結果は、しばしば逆転してしまう。原因があって結果があるのではなく、結果からそれらしい原因を見出してしまう、ということだ。「死」は、絶対的な結果だから、遺されたひとは、それらしい原因をつくってしまうし、故人を歪めてしまう。徹生の、自殺するような人間に思われたことへの怒りや悲しみは、どうしようもなく、それゆえ切実なものだろう。
中盤くらいまで、佐伯は徹生の自己投影なのかと思っていた。疲れ果てて、諦めてしまって、妬むだけになってしまったような。佐伯の言動はめちゃくちゃなのに、否定できるのに、まとわりついてくる感じがする。自分でも佐伯のように考えているところもあるのではないかと思わされる。
『わたしとは何か 「個人」から「分人」へ』(講談社現代新書)が2012年9月、『空白を満たしなさい』が2012年11月と、ほぼ同時期の発売である。作中で、精神科医の池端が分人主義についてなかなか詳しく語っているが、やはりこの2冊でセットなのだろう。
佐伯の自殺を、分人の考え方でとめることはできただろうか。佐伯は、誰といるときの自分がいちばん好きだっただろう。いわゆる弱者男性で、世をひねていて、自分の遺伝子をのこすことだけを望んでいる。分人同士で見張り合うことができたとて、これだけ破滅的な佐伯の自殺を止められるのか。
自殺においても犯罪と同様に、責任能力の喪失が認められるべき、というのはなるほどと思った。たしかに、自殺を選ぶほど追い詰められたとき、判断能力がないのは自然なことに思える。その場合に、自殺という結果から、故人について何かを考えても、意味がないのかもしれない。