読書記録_ウォーク・イン・クローゼット

『ウォーク・イン・クローゼット』
綿谷りさ著
講談社

 綿谷りさの本は、大体とても可愛らしい装丁だ。本棚にならべると、そこだけキラキラする。「綿谷りさ」という名前の字面も、ふわふわしたうさぎのようなものが思い浮かぶ。
 その実、緻密な文体で、人の業がこれでもかと描かれている。きっと、見た目が可愛いからなんとなく読み始めて、衝撃を受けるような女の子がいると思う。わたしもそういう出会い方をしたかった。

 『ウォーク・イン・クローゼット』には、表題作と、『いなか、の、すとーかー』の2篇が収録されている。

いなか、の、すとーかー

 綿谷りさの作品で、男性が主人公ははじめて読んだ。陶芸家の男性が、ストーカー被害に悩まされるお話。陶芸家の出身地の田舎を舞台に、主人公に加えて、幼馴染の「すうすけ」、幼馴染で主人公のことを好きなそうな「果穂」、東京から田舎までやってきた怪しい「砂原」の4人で話が進む。
 陶芸家の目線で被害者として、話は進んでいくが、主人公も、幼馴染達も、それなりに嫌な奴と思われるエピソードや描写が散りばめられていて、ここがこの作品の魅力、綿谷りさらしさがいちばん出ている部分だと思う。
 たとえば、主人公は果穂との思い出を何も覚えていない。6年生のときにお祭りの射的で苦労してぬいぐるみをとったことも、プラネタリウムに行ったことも。

「プラネタリウム。子どもの頃、いっしょに見に行ったの覚えてる?」
「覚えてない。いや、あったかな。でもどう見てもつぶれてるだろ、これ」

いなか、の、すとーかー 綿谷りさ

「おれ、ポップコーン食べてたっけ?」
「食べてた!映画館と間違えて、お兄ちゃんポップコーン買って持ってきたんだよ。やっと思い出してくれた!」
果穂がはしゃいで手を叩く。
「ほかは覚えてる?」
「いや、なんかそれだけ頭によぎった」
「なんでそんなのだけ覚えてるの?じゃあ上映中に私が怖くなって泣いたのも覚えてない?」
「…当時から気づいてなかったんじゃないかな。暗いだろ、上映中は」
頬をぷっと膨らませる果穂のしぐさが、何度見ても昔と同じで懐かしい。
「あり得る。お兄ちゃんって自分の夢中になれること以外は、ぼんやりした子どもだったもんね、いまもだけど」

いなか、の、すとーかー 綿谷りさ

 相手と一緒に行ったことの思い出に、自分のことしか残っていない自己中さ。それをそのまま伝えてしまう思いやりのなさ。記憶力の良し悪しの問題ではない。いかに自分のことしか見えていないか。自分に好意を持っているとわかっている相手を、喜ばそうとしているときにこれって、救いようがない。
 主人公は、「ストーカーが好きなのは俺ではなく、自分自身」だという。その通りだと思う。ただ、被害者である主人公もまた、自分自身にしか興味を持っておらず、同じ穴の狢だった。ストーカー達との対話を経て、自分が利己的だと気づき、悟ったようなことを言うようになったが、はたして。他者に目を向けるというのは、誰にでも(自分の作品に価値を認めた相手誰にでも)優しくするのとはまた別だと思うのだが。
 
 ラストでもすうすけとの関係が変わらず続いているところからすると、主人公は本当に気づいていないのだろう。それとも、故郷でやっていくために気づかないふりをしているのか。歪んだ愛情ゆえに行動した2人とちがって、すうすけの行動は、子どもの頃のいたずらやいじめと同じように純水な悪意によるもので、より恐ろしいともいえる。幼馴染の関係を、ずっと続けるのはやはり難しい。わたしも大学進学あたりで疎遠になった幼馴染を思い出した。

ウォーク・イン・クローゼット

 服が好きで他人の目を意識して着る服を決める女性「早希」と、幼馴染で売り出し中のタレントだが妊娠している女性「だりあ」をめぐる物語。

 TPOに合わせた服を着ましょう、と家庭科で習った。わざわざ習うまでもなく、相手や場所に合わせて服を選ばざるを得ない女性が、圧倒的多数なはずだ。早希ほどではないにせよ。空気を読むこと、社会性を持つこと、にそれは含まれていてる。むしろ、家庭科で教えるべきは、TPOを気にしすぎず、自分の好きな服も着ましょう、だと思う。

 他人からの見られ方を気にしすぎる割に(ゆえに?)、他人の見てくればかり気にする早希は、浅ましく愚かにみえる。早希が良いと思う男性の良さの根拠は、おしゃれな見た目、イケメン、ファッションセンス。隆史については、見た目以外に、「料理を取ったりドアを開けたりと紳士的」と評していたが、所謂モテテクとでもいうか、好感度をあげるために、誰もが誰に対してでもできることだ。

 妊娠しているだりあをマスコミから守って逃げ、陣痛が始まって病院に行けるように尽くすという経験をしても、早希はあまり変わらず、成長したりもしない。

運送業者が次から次へと大きなサイズの段ボール箱を、運んでくる。玄関先には置ききれないので一つしかなに部屋にも箱は侵入してきた。全部で9箱もある。
「この中の一つに赤ちゃんが入ってたりして」
ガムテープを剥がし蓋を開けてみると、中からあふれんばかりの洋服たちが出てきた。すてきな服ばかり、どこかで見覚えがある。
だりあのクローゼットに並んでた服だ!

ウォーク・イン・クローゼット 綿谷りさ

 陣痛が始まって病院に行くのにも苦労してでも産んだのを知っていての、「赤ちゃんが入ってたりして」。頭が悪いにもほどがある。服をとにかく愛していることは、伝わってくる。

 だりあは、出産して明らかに変わった。

「働いて手に入れた服に囲まれてると、いままでの頑張った時間がマボロシじゃなかったんだって思って、ほっとする。この部屋でドアを閉めて考えごとしてると、まだやりたい仕事がいっぱいあるって、むくむく野心がわいてくる。私にとっては、きれいな服は戦闘服なのかも」

ウォーク・イン・クローゼット 綿谷りさ

「そんなわけないでしょ。あげるよ、全部。着れるのがあったら、使って」
「うそでしょ、ありがとう!でもほんとにいいの?これだけの量の服、ほとんどだりあの持ち物の全部でしょ」
「いいよ、早希が着た方が服も喜ぶと思う。気に入ったのが見つかったら、大切に長く着てやってよ。私は当分おしゃれからは離れる。子育てにじゃまだから、髪も切っちゃった」

ウォーク・イン・クローゼット 綿谷りさ

 だりあにとって、服は、過去の努力を目に見えるものとし、未来への活力のもととなるものだった。けれども子育てには、それは不要だった。子ども自身が、子どもの成長が、過去の努力そのものだし、未来そのものだから。

 だりあの変化を好ましく、早希の変わらなさをざんねんなように感じるように描かれているが、そう感じるのは、自分の価値観の押し付けでもある。子育てはもちろん大切だけれど、変わらなければいけないわけではない。服や見た目だけにこだわるのは、わたしには愚かに思えるけれど、そういう価値観もあっていい。子どもを大切にすることと、自分の好きなものを大切にすることで、優劣などない。好きなものを好きでい続けるのも素敵なことだ。

 早希とおなじく、服へのこだわりの強いユーヤは、価値観が早希と合っていてお似合いだ。お似合いゆえに、ユーヤにとっての、早希がかわいいかどうかの判断で、ユーヤの片思いにが破れても早希とは付き合わないのだろうな、と予感させられる。

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