名前のはなし。
はじめましての方も、そうでない方も、改めましてよろしくお願いします、「望月亜紗子」と申します。
亜紗子=あさこ と読みます。
近年では、この「紗」の字を使った名前を見かける機会が増えたように感じましたが、私が幼いころはあまり見慣れない漢字ようで、よく「沙」と間違われていました。(今でも、変換で出づらいので違っていることが少なくないですが)
名付けられた由縁は、
〝私が生まれた5月の朝がとってもきれいだったから〟らしいです。
それならなぜストレートに「朝」という字を使わなかったかというと、父の職場に「朝子」さんがすでにいたから。
両親なりのこだわりがあったよう模様。
それを聞くと、なんだか照れくさくも嬉しい私です。
なのに、いつの頃からか私は、自分の名前が好きじゃなくなってしまいました。より正確に言うと、この名前であることに自信が持てませんでした。
先に述べたように、漢字を間違えられることも1つ。
さらに、
小学校の頃、同学年に名字が同じで名前が一字違いの子がいて、全校集会か何かで私が名前を呼ばれることがあった時、その子の名前が(私の名前と間違って認識して)呼ばれました。
(今思えば、その子もいい迷惑だったかもしれないけれど、私もすごくショックで前後関係は覚えていないのに、その名前を呼ばれた瞬間のこと、名前を間違えられたという記憶は結構鮮明に覚えています。恨んでいるんですね(笑))
さらにさらに、
今でもそうだけど、髪の毛が短くズボンばっかり履いていて、ザ・ボーイッシュだった私。よく男の子と間違われていました。
そんな風に見られる私なのに、名前にはザ・女の子な「子」が付いている。そんな名前を名乗ることに罪悪感のようなものを覚えていたのかもしれません。
小学校中学年時にあだ名をゲットしてからは、身内以外に名前で呼ばれることが極端に減り、余計に自分の名前への愛着が薄れていった、というか、間違われたり名前のイメージとのギャップを感じたりして傷つかないように、自分で自分の名前に対する愛着を手放していった気がします。
でも、最近、良い歳頃(笑)の大人になって、名前で呼んでもらうことが頻繁でなくともあって、その時、〝嬉しい〟と感じている自分が心の片隅に居るのを感じています。
つまり、私は私の名前が大好きだし、もっと大前提としてその名前を授かった私と言う存在が大好きなんです。
そもそも、この名前には親の想いとこだわりがぎゅっと詰まっている大切な大切な名前であり、私と言う存在に親は、そしてこれまで生きてきた人生で出会った方々は、愛情を掛けてくださっているわけです。
唯一無二の私と言う存在。
そしてそのアイデンティティの1つである名前は、生まれた時から今も、そして死ぬまで互いにひっついていくものなのです。
ふさわしいとかふさわしくないとかそんなんじゃない。セットで「私」足り得る。
そう考えたら、愛しいじゃないですか!
なんだかめっちゃナルシストな文章になってしまいましたが、これが私が書きたいとぼんやり思い続けていたこと。書けてスッキリ。書いていて改めて自分が感じていたことを見渡すことができて、やっぱりしっくりきて、嬉しい。一歩前に進んだ感じです。
あなたは自分の名前、好きですか?
近くに存在し過ぎて、当たり前過ぎて、意識下に持ってくることはなかなかないとは思うけれど、よくよく見つめてあげると何か発見があるかもしれませんよ。
※以前に書いた「名前のはなし」を、お題の出ているこの機会にリライトしました。