見出し画像

点数が伸びる先生は良い先生か

僕は、進学塾などの教育環境に手の届かない家庭環境の子どもたちに教育を届ける仕事をしています。

生活保護、1人親世帯、不登校、ひきこもり、発達障害、様々な背景を持った子どもたちと関わっています。

実際に生徒を直接担当することもありますが、指導のほとんどはアルバイトの先生たちに任せて、先生たちの勤務の管理や保護者とのやり取り、生徒と講師の配置を考えるなどの教室運営の仕事がメインとなっています。

そんな中、ある日社内でこんな会話を耳にしました。

「A先生良いですね。Bさんを担当してもらってからBさんのテストの点数が目に見えて上がってますよ」

「ほんとですよね、他の教室、先生たちと何が違うんですかね。すごいですね」

簡単にまとめるとこういった内容でした。

僕は間近でこの会話を聞いていたのですが、しばらく黙って考え込んでしまいました。

なにかもやっとしたのです。

そこで浮かんだ疑問は主に2つ。
「テストの点数が上がることは、Bさん、しいては生徒たちにとって良いことなのか?」
「生徒のテストの点数を上げられる先生は良い先生なのか?」

この2つです。

まずは1つ目について。

もちろん、テストの点数が上がれば成績が上がる。
成績が上がれば進路の幅も広がり、それに伴って向上した学力で、入試本番も合格の可能性が高まる。
志望校のランクも上がっていく。

そして高校や大学に合格すれば、職業選択の幅が広がり、社会人として生き抜いていく上でのスキルや資格、学歴というものが手に入る。

そうすればより「幸せ」に近づいていくことができる。

こう説明されれば納得してしまいそうになります。

僕は「幸せは客観的に測れるものでもなければ、主観的にその人が『幸せです』と言ったからといってその人が幸せと認定されるようなものでもない」
と思っています。

しかし、今の世の中、一般論として、社会構造を根底から変えない限りは
「勉強して良い大学に行って良い職業に就く」これが正解であるという考え方は覆せそうにありません。

僕だって現時点ではこれが最善手であることくらいわかっています。

ただ僕は、その考え方が嫌いだというだけです。
そんなことを発信したところで何も変わらないこともわかっています。

ただ「点数が上がった」「高校に受かった」「大学に受かった」「就職先が決まった」
これらの「吉報」を手放して喜ぶ支援者、伴走者にはなりたくないと思っています。

僕と同じような仕事をしている人は気持ちがわかるかもしれません。
上に挙げたような吉報を聞くとつい支援者としての立場からはほっと胸をなでおろしてしまうこと。
それを1つのゴールとして考え、自分の仕事は終わったと達成感を抱くこと。

悪いことではないでしょう。
その生徒のために自分が費やしてきた努力や苦労が報われたわけですから。
でも僕は、基本的に教育という仕事は報われない仕事であり、報われてはいけない仕事だと思っています。

何故なら支援者、指導者が何かの対価を支払って、その報酬や成果として何かが現れるものではないと思っているからです。

「お前が心配性だからだ」「ネガティブすぎる」と言われればそれまでですが、
僕はどうしてもその先を考えてしまいます。

高校、大学にはとりあえず受かったが入学した後は…?
就職してその後は…?

自分のしたことが本当にその人のためになったのか。
それはした側には知りえないことであり、された側にももしかしたらわからないことかもしれません。

けれど、それについて考えることを放棄してしまうことは違うと思う。

そして2つ目。
生徒の点数を上げることのできる先生は良い先生なのか。
良い先生の条件とは何でしょうか。
僕にはわかりません。

それは人によって変わるからです。
その生徒にとって良い先生。
それは(都合の)良い先生かもしれない。

生徒にとっては良い先生は、親からしたら甘いかもしれない。
教頭先生、塾の会社、世間。
色んな視点から見た良い先生像があります。

そして、誰かにとっての良い先生が、その生徒の人生にとって良い先生かは一致しない可能性がある。

だから結局は暫定的な答えとして
「今はそういう時代(テストで良い点数が取れたら社会的成功に近づくという考え方が支配的)なんだから、今のところ生徒の点数を上げられる先生は良い先生と言える」
というものしか出てきません。

なんとも煮え切らない結論になってしまいましたが、
ここで更に僕にはもやっとが浮かび上がってきました。

それは「自分の教育観を生徒に押し付けるのは罪か?」
という疑問です。

これはどういうことかというと、先ほどまで話していた
「良い先生」「生徒にとって良いこと」
ということに関してもそうですし、
自分が「教育はかくあるべき」という理想を、そのまま生徒に対する接し方に落とし込んでしまってよいものか、ということです。

例えば、
「テストの点数を上げてあげて成績アップ、難関校にごうかくさせてあげることが教育のあるべき姿だ」
と思っている先生と、
「勉強なんてしたくないならしなくていいし、強制はしたくない。自己選択、自己決定に任せればよい。意欲を見せる生徒に対してはそれに応えてあげればいい」
と思っている先生がいたとします。

それらをストレートに体現しながら教壇に立っている先生もいれば、
無意識に自分の指導に反映されている先生もいるでしょう。
まだ自分の色や教育観のようなものが定まらずに葛藤しながら指導に当たっている先生もいるでしょう。
あるいは何も考えずに指導している先生も…。

「点数アップ先生」によってストレス過多になりつぶれてしまう生徒が出てくる可能性も、
「放任先生」によって少し焚き付ければ芽が出た生徒がいた可能性も、等しくあるでしょう。

そして、文科省や教育委員会、都道府県、学校、会社。
いろんな組織における教育方針に従ったなかで自分の教育観を小出しにしていく。

これが一番現実味のある落としどころなのかもしれません。
ある程度枠が無いと破綻するのかもしれません。

私が思う教育はこうだから。
それをアップデートせずに生徒に押し付けるのは罪だと思う。
けれど、日々アップデートして先生として変わり続けるということは、
去年担当した生徒と今年担当した生徒に180度違うことを言う可能性だってあるということです。

教育ってそんなもんなのでしょうか。

凝り固まっていてはいけないけど、トレンドであってもいけない。

ますます迷走していきそうですが、今回はこの辺りで。

ありがとうございました。

小野トロ

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?