本当に「可能性は無限大」だったら実は困ること、有限だからこそ得られるもの
可能性は無限大。
自分に限界を作るな。
よく聞くフレーズですね。
僕はこれらのフレーズはあまり好きではありません。
嘘っぱちだからです。
ニヒリストでもペシミストでもありません。
ネガティブな考え方をしているわけでもありません。
「可能性が有限であること」の方がよっぽどポジティブになれることを、
この記事を通して証明してみせましょう。
ヒントを貰ったのは、またもやV.E.フランクルさんです。
彼は著書の中でこう言っています。
いつかは死ぬからこそ、なにかやろうと思う
フランクルはさらにこう言います。
私たちが不死の存在だったら、私たちはなんでもできただろう、
しかしまたきっとなにもかもあとまわしにすることもできただろう、と。(中略)
死というもの、終わりというもの、さまざまな可能性の限界がなくなることによって、
あることをまさにいま行動にうつす理由、ある体験にまさにいま没頭する理由がなくなるのです。
けれども、私たちは、いつかは死ぬ存在です。
私たちの人生は有限です。私たちの時間は限られています。
私たちの可能性は制約されています。
こういう事実のおかげで、そもそも、なにかやってみようと思ったり、
なにかの可能性を生かしたり実現したり、成就したり、時間を生かしたり充実させたりする意味があると思われるのです。
なんだか長ったらしくて読みにくい文章ですが、フランクルの語り口がこうなのか、翻訳の影響なのかはわかりません。
フランクルの書いていることの要約と僕なりの解釈を書いていくことにしましょう。
つまり、私たち人間には、死という抗うことのできない終わりが用意されており、その点で有限な存在である。
そして死による有限性を持つということは、時間も有限であり、そこから考えていくと、あらゆる可能性は制約されているということになります。
しかし、だからこそなにかをやってみようというモチベーションが湧き起こるのであり、
私たちが不死であり、あらゆる可能性が無限大であるならば、
何事もアクションを起こす意味がなくなってしまうのです。
無限大ならば、いつしてもいいし、誰がしても良いわけですからね。
そうすると、私たちはもっとこの有限性に感謝するべき、ということになるわけです。
有限で、どうしようもないことがあるからこそ、
なんとかしたいなあという気持ちが湧く。
努力ではどうしようもないことがあると知ることによって、
努力しようと思う。
限界はある方がいいのです。
勘違いしないで欲しいのは、成長しよう、前進しようという意欲やマインドを否定しようというわけではないということです。
限界がなかったらきっと頑張れないよ、ということです。
限界があるからこそそれを突き破ろうと頑張ったり、
或いは違うフィールドへ移ってまた違うアプローチから進んでいこうと思えるはずです。
ですから「限界を作るな!」は自分の成長幅や努力量の限界ということではなく、
如何に多種多様なフィールドへ移行しながらチャレンジを繰り返せるか、
異種へ、畑違いなフィールドへ移って、
負け続けながら成長していけるか、ということではないでしょうか。
ですから、挑戦をやめない、成長が止まらない、限界が無いと周りに思わせるような人物は、
実はより自分の限界を冷静に見つめているのではないか、ということになると思います。
大のドラゴンボール好きの僕からしたら、
悟空とベジータの2人なんかはまさにこれに当てはまるような気がします。
セル編での超サイヤ人の限界を越えようと模索する2人の闘いなんかは大好きなところです。
あの2人も、自分の有限性を知っているからこそ、時にはアプローチを変えながら(セルゲーム前の孫親子のように)、限界を越えようと挑み続けられるのでは、そう思います。
ドラゴンボールの例えについて来れなかった方はすみません。
今回は、限界はあるからこそ頑張れる。というお話でした。
小野トロ
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