共感とは偏ること?
共感。
この言葉は良い意味で使われることが多いと感じます。
偏見。
この言葉は悪い意味で使われることが多いと感じます。
まずは共感から。
共感性が高いことは良いこと。良い人の条件ともされる。
SNSの投稿や世に出回るすべての商品。
共感を得ることが是とされます。
福祉や教育の世界で働くひとにとっても、
この「共感」は必須項目とされます。
普段あらゆる境遇においてそれを得られない人にそれを与えることが善とされます。
いっぽう偏見。
これは一般的に良くないものとされます。
偏るのはよくない。
なぜならそれは差別、排他的・攻撃的な言動、行動に繋がるから。
もっともらしい、正しそうな考え方です。
しかしここで考えてみてほしいことがあります。
共感という言葉は、すなわちその人や考え方に「寄る」ということです。
その人や考え方の真反対に立っていては共感はできないでしょうし、
ニュートラルな位置、いわば真ん中に立っていてもそれは共感とは言えないでしょう。
そしてまた偏るに戻りましょう。
偏るという言葉は「片寄る」とも書きます。
そのままの意味で「片方に寄る」という意味です。
少しずつ僕の言いたいことが見えてきたでしょうか。
共感は字面だけ見ると「共に感じる」ですから、相手に寄り添う姿勢が必須となります。
つまりはその対象に片寄ることになります。
「共感」と「偏見」は両極に位置する言葉なんかではありません。
「共感」の先に「偏見」があるのです。
このことを鑑みずに「共感」は善としてしまうと、
多くの共感を得られた考え方はすなわち正義となってしまいます。
正しさと、共感する人の多さはイコールではありません。
共感できない考え方、共感を得られない考え方イコール悪ではありません。
それを取り違えていることに由来する不幸が、
どうもこの世の中に溢れている気がしてなりません。
小野トロ