私にとって親孝行は、愛を受け取り、循環させていくこと。
小6の娘と、夕飯の食器を洗いながら「親孝行」について話した。
正確に言えば、私が食器を洗い、娘が食器を拭いていく。
連携プレーでどんどん食器を元通りにしまっていった。
私がキッチンで洗い物している間に、パパとこどもたち3人がダイニングテーブルでUNOをやっていた中で、
「いっちばーん!!!」と娘があがったところをナンパして
「ねぇねぇ、そこの嬉しそうな可愛いお姉ちゃん、食器拭いていかないかい?」と声をかけた。
「えぇぇっ?!(笑)」と一瞬苦笑いしながらも拭き始めてくれた娘に
「ありがとね。せっかく一番にあがったのに、なんだよぉってね(笑)」と明るく伝えたものの、嫌そうな顔もせずに綺麗に拭き上げてゆく娘に感謝が込み上げてきた。
「〇〇(娘の名前)がさ、大人になって、まぁ結婚するかも母親になるかもわかんないけど、何かやりたいことがあった時には応援するから頼ってね。頼りになるか保証はないけど。」
と、ひとりごとのように伝えた言葉に、娘は反応した。
「えぇぇ…?なんで?逆じゃない?私たちが大人になったら私たちが親を助ける側でしょ?頼られるのはこっちでしょ。それが親孝行ってことなんじゃないの?」
話を詳しく聞くと、どうやら学校の授業でも「親孝行」という言葉について考える時間があったらしい。
この話はこの時初めて聞いたけれど、娘にとっての親孝行は「育ててもらった恩や感謝を、大人になったら返していく」というものだった。
「あー…。まぁね。そういう考え方もあるよね。でもね、もう親孝行はしてもらってんのよ。」と返事をすると、
娘は「え?どういうこと?(笑)」と半笑いで不思議そうな顔をした。
「もうね、これだけ可愛い時期を一緒に過ごせて、楽しませてもらって、愛情を受け取ってくれたから。充分。それが親孝行だよ。」
これは私が長女を出産してからずっと思ってることだった。言葉として自覚したのは子育てし始めて10年くらいの時だったけれど。
何かの本の受け売りかもしれないし、誰かの価値観の影響かもしれないが、はっきりとは覚えていない。なんでかこの気持ちはずっとあったのだ。
「だからね、〇〇たちは、また誰かを愛したり、愛されたり、何かに時間やエネルギーを使っていけばいいよ。そうやって生きてってくれたら、超スーパー親孝行だよ!」と謎のジェスチャーをまじえながら伝えた。
娘は「なんだそれ!!(笑)」と笑いながら、UNOの2回戦へと戻っていった。
愛する対象があるということ。
その愛を純粋に受け取ってくれたということ。
受け取った愛を、喜びを、惜しみなく態度や表情や言葉で表現してくれたということ。
人が成長していくという過程を間近で見せてくれたということ。
もがき、葛藤し、喜怒哀楽を表現し、食べて排泄して動いて寝て笑って…
そんな全力の「生」を感じさせてくれたということ。
子育てを通して経験させてくれたことや感じさせてもらったことはたくさんあるんだ。
もうそれだけで、充分すぎる贈り物なんだよ。
親孝行はとっくにしてもらってる。
もし、やっぱりまだ何かしたいよと思ってくれるのならば、どうかあなた達の中で育まれた愛情を、循環させていってね。
なーんて言いながら、もし孫でも出来ようもんなら推し活みたいに「キャーッ!可愛いっっっ!!」って悶えてそうな気もするけど。笑
これから思春期を迎える娘の親として、この気持ちを残しておこうと思う。
(いつかまたいろんな経験をしながら、更新されていくんだろうなぁ…)